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今週のメッセージ

2025年1月19日 顕現後第2主日(C年)

司祭 ダニエル 鈴木恵一 阪神淡路大震災から30年を迎えました。30年前の1/17に起きた阪神淡路大震災は多くの人が傷つき亡くなった大きな悲しみの出来事です。毎年、1月の第3日曜日はそのことをおぼえ、また今後の大きな災害への備えとして、京都教区では今日の信施は災害支援資金として用いられることを呼びかけています。阪神淡路大震災は大変な出来事でした。そのただなかにあって、悲しむ人々を支えようという心が多くの人々の間に起こりました。このことは社会を変えるような大きな働きになりました。そして、教会も多くの人々と支え合って、苦難を共に歩みます。 きょうの福音書(ヨハネ2:1-11)には「召し使い」が登場します。召し使いは聖書の書かれた言葉ギリシア語ではディアコノスといいます。執事を表すディーコンの語源でもあります。聖書ではこのディアコノスは「仕える者、奉仕者」と訳されることもあります。今日登場した召し使いたちもイエスさまの言葉に従い、イエスさまのなさることに協力しました。わたしたちも召使いたちのように人々と神さまに仕えるものになり イエス様の道を共に歩みたいと思います。 そして、きょうの福音書は イエスさまの最初のしるし 最初の奇跡の出来事が朗読されます。イエスさまが危機を喜びに変えられた出来事です。イエスさまの奇跡の出来事は、わたしたちの経験を超えた不思議な出来事です。ただの水がぶどう酒に変わったという出来事も、わたしたちは手品のようになにか仕掛けがあるのではとうたがったりするかもしれません。どのようにして、水がぶどう酒に変わったのか、ということを考えて、自分の納得のいく理由を探していることもあります。そのような、表面的な思い巡らしにとどめることなく、その水がぶどう酒に変わったということで、そこにあつまった人々にどんな意味をもっていたのかということを考えることも わたしたちに大切なことです。 イエスさまの奇跡の出来事は、わたしたちにいつも挑戦 試みをしてきます。そのように深く考えていくことは、わたしたちとイエスさまや神さまとの対話でもあります。わたしたちがこれからをあきらめてしまうような希望を失いかけた時でも、共にいてくださるイエスさまは、わたしたちが思いもよらない出来事をとおして、悲しみや苦しみを希望へと変えてくださいます。わたしたちもその喜びを分かち合い喜びを伝えるものされていきましょう。 Read More

2025年1月12日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(C年)

司祭 マーク シュタール イザヤ書42:1~9 使徒言行録10:34~38 ルカによる福音書3:15~16,21~22 イエス様のご降誕、命名、そして1月6日の顕現日と、キリスト教の大きな出来事が相次いでありました。顕現日は、三人の東方の博士が星を頼りに馬屋にたどり着き、生まれたばかりのイエスを見つけ、金、没薬、乳香の捧げ物をしてイエスを拝みます。このクリスマス後の季節、顕現節に当たり、改めて顕現の意味をさまざまな角度から考えたいと思います。例えば、顕現後第1主日は主イエス洗礼の日なのですが、洗礼時、イエス様はおよそ30歳だったと言われています。改めて考えると、生まれたばかりイエス様があっと言う間に30歳になっているというのは不思議な感じがします。 実に、この主イエス様の洗礼はとっても大きな出来事です。この洗礼がなければ、イエス様の宣教活動もなかったでしょう。そして、この洗礼の出来事が顕現節にあることに大きな意味があるのです。顕現とはRevelation「啓示」とかManifestation「明示」という意味ですが、これは、宗教あるいは信仰の世界特有の概念ではありません。顕現という言葉は政治の世界とも強い関係があります。最近の出来事でもいろいろ重なることがあります。例えば、4年前のパンデミック、そして現在の政治的、経済的な混乱、さらには戦争によって、世界の多くの国が苦境に立たされています。そして、私の国、アメリカでは大統領選挙で分断が進み、今後の国政の行方、さらには世界に与える影響に大きな不安を覚えます。いずれの状況においても、政治家は時に私たちの救い主イエスの権威とメッセージを都合よく利用することがあります。政治的、社会的事象が顕現であるかのように説明したりします。 元々、イエス様は政治家が望むような人物、言い換えれば、権力者に尊敬される存在ではありませんでした。福音書でも頻繁にイエス様は悪魔の手先だとか、大酒飲み、大食家、不道徳を奨励する者だとか言われます。これらは当時の政治的リーダーたちによって勝手につけられたイエスの称号でした。復活後のイエス様も同様の扱いを受けました。昔も今も権力者、政治家は都合よくイエス様を利用したと言えます。 啓示または明示を意味する「顕現」は約2000年前に私たちに示されたことですが、それは決して、政治家のスローガンなどはなく、イエス様のバプテスマでした。その真理は異邦人にイエス様の存在が啓示されたことにあるのです。そして、最も重要なポイントはこの洗礼は神様の救いが少数のイスラエル人のためだけでなく、すべての人のための救いであるということです。その啓示は今も脈々と受け継がれ、この日本にも届き、私たちはヨルダン川で行われたイエス様のバプテスマの生き証人となっているのです。 Read More

2025年1月5日 降誕後第2主日(C年)「今」を考える

司祭 ヨシュア 大藪義之 強く、雄々しくあれと、わたしはあなたに命じたではないか。 うろたえてはならない。おののいてはならない。 あなたがどこに行っても、あなたの神、主はあなたと共にいるからだ。 (ヨシュア記 1:9) だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。 あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に 遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう 逃れる道をも備えてくださいます。 (コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:12-13) 神の前で、そして生きている者と死んだものとを裁かれるキリスト・イエスの前で、 その出現と御国とを思い、私は厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。 忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。 誰も健全な教えを聴こうとしない時が来ます。 その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話へとそれていくようになります。 しかし、あなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、 自分の努めを全うしなさい。 (テモテへの手紙Ⅱ 4:1-5) Read More

2024年4月14日 復活節第3主日「…あなたがたと一緒にいたのは、預言書はリアル・ほんとうに・実現ということ…」(ルカ福音書24章44節)

司祭 パウロ 北山和民  死んだはずのイエスが生きて、おそれと不信の人たちの中に立つ(復活の記述)とはどういうことなのだろうか。 「心を開いて」と語りかけるイエスをイメージすることと、「その名に帰依(エンパシー)することで罪の赦しを得るメタノイア(悔い改め)を宣教する人(世界)に変わるのだ」という壮大な救いのイメージ、この二つは繋がるのかも…、という気づきを与えてくれている。ルカ福音書が今日私たちを「リアルとは何か?」に招いていることに心を潜めたい。 イエス様は、たとえば7章36節以下(マタイ26:13ほか)にあるように「罪深い女」と呼ばれた女性に同情した。いわゆる偽善に陥り易いシンパシーというより、「深くエンパシーを持った」、つまりその女性を「隣人」とし敬愛し拝むようなイエス様が描かれていると読めます。もし私たちも今世界の不条理のゆえに悲しむ人を、イエス様に重ねて思いやり、尊敬するなら私たちの教会、社会が変わって行くだろう。隣人(分かち合う必要を気づかせてくれる人)を発見することこそ、自分を愛することを発見し、不信と恐れからの立ち直りが実現されること。この出来事を教会は「本当に主はよみがえられた」と宣言したのです。 その出来事のために「主の祈り」があり、「その名(24:47)を唱える礼拝」があるのです。親鸞(歎異抄)が、念仏する行為に悔い改めというリアルを発見したように、「ナム(サンスクリット語でのエンパシー・尊敬)・アミダ(無限愛の名)」ならぬ「ナム・キリスト」、つまり「キリエ・エレイソン」は、「エンパシーするイエス様に私もエンパシーさせていただきます」と悔い改め(メタノイア)する祈り(ナム・キリスト)なのです。 ルカ福音書は、「無関心病の私たち」に「イエス様がどうしてもあなたの隣人になりたいんだって。復活してやるって騒いでるよ、どうする?」と迫って、あなたが勇気ある者、分かち合う生き方(リアル)へと変わるよう招いています。その勇気(エンパシー)こそイエス様そのものであると気づかせるのです。どうする? Read More

2024年4月7日 復活節第2主日「あなたがたに平和があるように。」

司祭 ヤコブ 岩田光正  今週の福音は、十字架の日から3日後、イエス様がご復活された日の夕方の出来事です。この日の朝、復活されたイエス様が墓の外で泣いていたマグダラのマリアにあらわれています。また、福音には彼女がイエス様を見たこと、またイエス様の話されたことを他の弟子たちに告げたと記されています。福音はこの後につづくお話です。流れから言えば、福音に出てくる弟子たちはこのマリアからの知らせを聞いていたと想像することも許されるでしょう。しかし、弟子たちはこのマリアの喜ぶべき知らせとは裏腹にびくびくしながら、戸に鍵を掛けて家に閉じこもっていました。 そんな時です。鍵を掛けていたにも関わらず、いつとも知れずイエス様が弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように(シャローム・主の平和*安心して行きなさいの意味があります)」とやさしく語られます。そして、十字架で受けられた手と脇腹の傷を見せられたのです。「イエス様は、本当に甦られたのだ。」この瞬間、彼らの心はこれまでの恐れから喜びに変わりました。  イエス様が鍵の掛けられた部屋に入って来られた、そして、ご自分の手と脇腹の傷をお見せになった。福音記者ヨハネは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?それは、ご復活されたイエス様は弟子たちの願望が生み出した幻ではなかったこと、あるいは、私たち日本人がイメージするような実体のない幽霊のような存在でもない、たしかにイエス様であった・・・この真実を強調しているのだと思います。 一方で福音記者ヨハネは、ご復活されたイエス様はこれまでと違って、鍵のかかった部屋にも自由自在に入ってこられる新しい体としてご復活された、この真実をも同時に伝えようとしているのではないでしょうか? さて、この時、彼らは部屋に鍵をかけて閉じこもっていましたが、彼らが鍵をかけて閉ざしていたのは実は、心だったのではないでしょうか?そして、彼らが恐れていたのはユダヤ人というよりむしろイエス様ではなかったのではないでしょうか?そしてイエス様とお会いしたというマリアの知らせにこの恐れはいっそう大きなものとなっていたのではないでしょうか?敬愛し、尽してきた先生、最後まで、たとえ殺されそうになってもついていきます、そう言っていたにも関わらず、逃げてしまった、裏切ってしまった自分たち・・・意思の弱さや死への恐怖、また愚かさのため先生を見捨ててしまったという深い罪の意識、脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かんでくるイエス様の幻、自分たちのことを憎み、恨んでいる恐ろしい面持をしたイエス様に怯えていたのではないでしょうか。まさにそんな時、彼らの真ん中にイエス様が現れた・・・しかし、意外にも自分たちを呪ったり、憎んだり責めるどころか、「安心して行きなさい」と言ってくださいました。そして、目の前のイエス様は十字架で受けられた傷のあるイエス様ではありませんか。この時です。閉ざされていた心が開かれます。恐れは安心に変りました。同時に彼らは気付いたはずです。 イエス様の手と脇腹の傷は自分たちのためであったのだ・・・イエス様の傷は罪深い自分たちをも赦してくださる神様の慈しみであったことに気づいたのです・・・復活のイエス様は彼らに対し更に重ねて言われました。 「あなたがたに平和があるように(安心して行きなさい)。」 この後、弟子たちとイエス様と新しい関係が生まれます。これまではいつも後ろに従っていながらイエス様のことを理解できない弟子でしたが、この時を境に、イエス様が真の救い主(メシア)であることを理解できました。同時に、イエス様が十字架の後、必ず復活されること仰っていたことが目からウロコの落ちるように分かったのです。そして、この後イエス様のことを世に証ししていきます。 ところで、復活の主が現れた時、ちょうどそこになくてイエス様に出会えなかったトマスが出て来ます。「疑い深いトマス」のニックネームで紹介されている弟子で、最後、イエス様から「見ないのに信じる者は幸いである」と諭されていることで、彼は信仰者として良くないお手本のように受け取られています。また、私たちもそのように額面通りに受け取っているように思います。つまり、イエス様は、わたしたちにトマスの様に見たから信じる者でなく、見ないでも信じることのできる者になりなさい、見ないで信じることのできる者こそ良い信仰者だ・・・私たちはイエス様がそのように語っているように思っていないでしょうか? しかし、果たしてそうなのでしょうか?決してそうではないと思います。と言いますのも疑い深いトマスは、決して不信仰な者でないからです。他の弟子たちが復活の主を信じたのは彼らがその時、部屋にいたからであり、その点彼らもイエス様を見たから信じたのです。トマスはたまたまその時いなかっただけです。だから全く他の弟子と同じです。むしろ、他の弟子以上にイエス様のことに熱心であったのかも知れません。だからイエス様が他の弟子たちだけに会ったことに嫉妬していた。手に釘の後を見、指を釘跡に入れて見なければ信じるものかと拗ねていたのです。しかし、イエス様は、トマスの所にも、鍵のかかった部屋の中にきてくださいました。そして、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいます。更に、傷の跡まで見せてくださいました。その瞬間、トマスは「わたしの主よ、私の神よ」と信仰を告白します。この時、彼の閉ざされていた心が開かれます。同時に恐れは安心に、疑いは確信に変わりました。そして、十字架の釘跡が決定的に彼を変えたのです。イエス様の傷が罪深い自分のためであったことに気づいたからです・・・その時、このような自分をも赦して下さる神様の大きな慈しみを見たのです。 今日の福音の結びをご覧ください。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエス様は神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」イエス様の言葉は、今を生きる私たちのために語られた言葉なのです。 最後、長い信仰生活の中で、わたしたちは時に、自分の心を閉ざしてしまうこともあります、神様に言えないような罪を犯してしまい、そのことで怯えてしまい、心に鍵を掛けてしまうことが人生の中にないでしょうか。トマスの様にすねてしまうこともあるかもしれません。 しかし、イエス様はいつも自由自在に私たちの閉ざしている心にきてくださり、心を開こうとしてくださいます。そして、安心して行きなさいと赦し、慰め、励まそうと来てくださっています・・・復活のイエス様は、私たちがしんどくて起きあがれそうになくても再び起きあがらせて復活させてくださいます・・・今日もイエス様が真ん中に立ってくださっています。今週も私たちは安心して世に派遣されて行きましょう。 Read More

2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日(B年)

司祭 パウロ 北山和民 「イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。…」(マルコ10章21)  「善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と問う人に、イエスは、じっと見なくても金持ちとわかるのに「じっと見つめ、慈しんで言われた」。「慈しむ」はアガペーの関連語が用いられ、深い尊敬、エンパシーを意味する。つまり、めっちゃ忙しい(十字架への)道の途上に、無視していいような金持ちの人との出会いに、イエスは他の出会いと同じ全霊を注いでいるとマルコは記すのです。(私たちの牧会はどうでしょうか) このイエスの態度に心を潜め、エンパシーしてみた。 「あなたは財や富裕を、律法が言うように神の祝福と信じていたいが、未だ満たされていないのだね。未だわからないだろうが、わたしは自由という名の「あなた」なんだ。わたしのところに来ないか?わたしをあなたの隣人にしてくれないか…。無理?…ああそうか、あなたは自分の財産管理の責任、保身に囚われているんだ、分かち合いこそ「悔い改め・メタノイア」、自由だとわからないのだね、残念!でもあなたは『悩みつつ立ち去って』いくんだ!…ならば今は落胆し不可能に思えても、あなたの知らない隣人のわたしが待っているから大丈夫だ。何故なら、わたしは十字架への道が苦しいけれど、悩み落胆するあなたを分けることのできない半身のように伴いながらこれから頑張って歩んで行こうと確信したんだ。」これがマルコ10章の記すイエス様の態度価値なのです。「イエス様の教え」ではなく、イエス様へエンパシー、即ち尊敬共感し、イエス様の靴(あるなら)を履かせてもらう他者経験へ招く、ヘイトクライムを越える、アガペーの物語なのです。「救われた」と信じ込むより、大切な態度とは、「わかったような態度はやめて、イエス様にエンパシーしてみること。ナザレ人イエスという生きた歴史を今に重ねて、自由の靴を履いてみるチャンスはわたしの知らないすぐ隣でわたしを待っている」と希望をもって礼拝を続けることです。  イエス様はわたしたちを招きます。「資本主義、富は神の不平等の印でもなければ、あなたの幸福信仰の印でもないんだよ。わたしのこの自由さにあなたも来ないかい」と。 Read More