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今週のメッセージ

2026年3月15日 大斎節第4主日(A年)

司祭 プリスカ 中尾貢三子 ヨハネ福音書9章には、生まれつき目の見えない人をめぐる出来事が記されています。 弟子たちはイエスに「この人が盲目なのは、本人か両親の罪のせいか」と尋ねました。当時の常識では、障がいや病いは罪の結果と考えられていたからです。しかしイエスは「神の業がこの人に現れるためである」と語り、唾でこねた土をその目に塗り、シロアムの池で洗うよう命じられました。彼がその通りにすると、目が見えるようになりました。 周囲の人々は驚きますが、同時に彼をひとりの人格としてではなく、噂の対象として扱います。ファリサイ派の人々のところに連れて行かれた彼は、そこで何度も「何が起こったのか」を問われ、そのたびに自分の経験を自分の言葉で語ります。その証しは次第に確信を増し、「あの方は神から来られた」と大胆に告白します。しかしその告白ゆえに、彼は信仰共同体から追放されてしまいます。 追い出された彼を、イエスは探し出し、「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。彼が「主よ、信じます」と答えたとき、彼は肉眼だけでなく、心の目も開かれたのでしょうか。イエスは続けて「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と語られました。神の前での在り方が語られた箇所でもあります。 私たちは、自分の考えや基準だけで他者を判断してしまうことがあります。「自分のほうが分かっている」と思い込むとき、相手を心の外に追い出してしまいます。ファリサイ派の人々も弟子たちも、その過ちを犯しました。しかしイエスだけは決して誰をも締め出されませんでした。見捨てられ、拒まれ、十字架に至るまで、人間の弱さとかたくなさにとことん寄り添われたのです。 大斎節も後半に入りました。イエスとはどのような方で、どのように人と向き合われたのか。そして私たちはこの方をどのように扱ってしまうのか。これは2000年前の物語ではなく、今ここで問われている出来事です。この方のまなざしに自分を照らしつつ、受苦日へ向かう日々を歩みたいと思います。 Read More

2026年3月8日 大斎節第3主日(A年)

司祭 ダニエル 鈴木恵一 大斎節は、わたしたちが心の奥底にある満たされない気持ちと向き合い、神さまへの信頼を深める大切な時です。 わたしたちは、砂漠で水を求めたイスラエルの民の出来事と、サマリアの女性に「永遠の命をもたらす水」を約束されたイエスさまの出来事から、神さまがどのようにわたしたちの必要を満たしてくださるかを知ります。 イスラエルの民は出エジプトの旅で砂漠の中で水不足に直面し、神さまとモーセに不平を言いました。そして神さまが本当にそばにいるのかをも疑いました。そこで、神さまはモーセに岩を打たせ、そこから水が湧き出し民の渇きを癒しました。パウロは、この岩がキリストを表していると語っています。わたしたちも困難な状況の中で神さまを試すのではなく、いつも支え導いてくださる神さまを信頼するものとなることを願います。 イエスさまはサマリアの女性に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と約束されました。この「永遠の命をもたらす水」は、わたしたちの心の渇きを満たし、罪から解放し、永遠の命をもたらすものです。イエスさまはまた、本当の礼拝は、特定の場所や形式ではなく、心と真実をもって神さまを敬い求めることにあると教えられました。イエスさまとの出会いによって人生が変わったこの女性の体験は、多くの人々をイエスさまへと導きました。わたしたちも、イエスさまから受けた恵みを伝える役割へと招かれています。 砂漠の岩からの水と、イエスさまが与える「永遠の命をもたらす水」は、神さまがわたしたちの体と心の必要を満たしてくださることを示しています。大斎節を共に歩むわたしたちは困難な状況の中でも神さまを信頼し、イエス・キリストから与えられる「永遠の命をもたらす水」を求めていきましょう。 Read More

2026年3月1日 大斎節第2主日(A年) 聖書箇所ヨハネによる福音書3章1節から17節

司祭 アンデレ 松山健作 ファリサイ派に属するニコデモとイエスさまの対話となっています。ニコデモは、イエスさまのなさるしるし(奇跡)に関心を寄せ、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」近づきます。 ニコデモの声かけに対して、イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国は見ることができない」と伝えます。ニコデモは、すでに歳をとっており、新たに生まれるという事柄そのものに抵抗をおぼえます。「もうこの歳になって新たには…」と思ったのかもしれません。 ニコデモの言葉をもう少し細かく見てみると、ニコデモは新たに生まれることを「もう一度」(デウテロン)と認識します。一方でイエスさまは「新たに」(アノーセン)と伝えています。この「新たに」は、「上から、神から」という意味合いもあり、神によって、天によって生まれ変わるということを想起させる言葉となっています。おそらく、ニコデモは、イエスさまの伝えている趣旨を認識できなかったのかもしれません。あるいは誤解して受け取った可能性を含んでいます。私たちも、イエスさまのみ言葉を黙想するとき、思いおもいに受け取り、時に誤認することもあるでしょう。 しかし、イエスさまはそのようなニコデモの誤認を理解して、「霊」の働きに柔軟に身を合わせて生きるようにと伝えます。「霊」とは、風のようにどこからともなく吹いていくものであり、人間の理解を超えて働く神の力です。ニコデモはファリサイ派の議員でありましたが、律法の細則にがんじがらめになってしまい、霊の力を悟ることに疎くなっていたのかもしれません。律法の細則とは、人間が神に忠実に生きるように作ったものであり、時に時代に合わなくなり、状況に合わなくなってしまうこともあり、人間が真の神に向かって生きることを妨げる場合もありました。 イエスさまは、神として働く「霊」に導かれて柔軟に変化しながら生きる命があることを「新たに生まれなければ」と私たちに伝えています。大斎節のとき、私たちが神の霊に身を委ね、新たに変化する中で自らの命を生かされる弟子として遣わされますように。 Read More

2026年2月22日 大斎節第1主日(A年)  三寒四温と大斎節~「寒い」私たちと「温かい」神の言葉【マタ4:1-11、創2:4b-9,15-17,25-3:7、ロマ5:12-19】

司祭 ヨハネ 黒田 裕 何年も前のことになりますが、ある旧約学の先生から、神の義というものは、規範的なものというより、もっと宇宙論的に理解される必要があると教わり、目からウロコの取れる思いがしました。そして、いま私自身はそれを押し広げて、神の義だけでなく、神の言葉も愛も恵みも宇宙論的に、つまり天から放出され降り注ぐ恵みの温かい力として受け止めたいと思っています。なぜなら楽園を追放されたアダムとイヴには神みずから手作りした皮の衣が着せられたからです。裏を返せば、神さまから離れるのはとても寒いことといえます。しかしながら、神さまは人が寒さのうちに死に絶えることを望みませんでした。そこで、まず温かい衣を着せました。そしてこれが憐れみや恵みの原イメージなのです。状況的には「お寒い」。だからふたりは葉っぱを腰に巻いたのです。 そして使徒書です。一人のひとアダムによって「お寒い」人間状況がもたらされたように、ひとりのキリストによって温かな人間状況がもたらされました。それは17節から言えば、神から離れて自己が自分の主人になろうとするとお寒い状況、つまり、かえって自分の人生を生きられないということになり、そうではなく、イエス・キリストの温かさに支配されるとき自分の人生を生きられる、といえます。そして、それを私たちに先立ってその身で証しされたイエスさまの姿が本日の福音書に出てきます。 ここで受け取りたいのは、神の口から出る一つひとつの言葉は、義と同じく天から放出され、わたしたちを包む温かい陽光だということです。ここで、つくづく思うのです。わたしたちが三寒四温の季節から春にかけて大斎節を過ごすことができるのは本当にありがたいことだ、と。私たちはいくらなんでも寒さばかり続くことには耐えられない。三寒四温の季節にも似て、一週間おきに主日を迎え、ひとときの復活の温かさを楽しむのです。ちなみに全くのこじつけですが、「四温」は都エルサレムが建つ丘「シオン」と音が同じですね。 大斎節第一主日です。いわば四温の「温」の一つ目がやってきました。この時に初めの人が置かれたお寒い状況との対比でイエス・キリストの真理が明らかとなりました。そして、荒野でのお寒い状況をもたらす悪魔の誘惑に抗して、イエスさまは神の言葉を中心にして悪魔を退けました。これは、神さまが主権を持たれることによって、むしろ、わたしたちが自分の人生の主人公となることを意味しました。それは他でもない、この、とても寒い時代のなかで、神さまの言葉の温かさに包まれて生きること、といえるのではないでしょうか。 Read More

2026年2月15日 大斎節前主日(A年) 「イエスの姿が変わる」【マタイによる福音書第17章1節から9節】

司祭 サムエル 小林宏治 今回の福音書は、大斎節前主日のものです。今週の水曜日から大斎節に入ります。大斎節はイースター(復活日)を迎える準備の期節です。約40日を過ごします。祭色は紫です。紫の期節を迎えます。心を整えて、主の復活(復活日)を待ち望みたいものです。 今日の福音書の小見出しは、「イエスの姿が変わる」です。山上の変容ともいわれるところです。山の上でイエス様の姿が光り輝いたお話です。わたしたちはすぐに結果が出ることを求めているように思います。目の前に苦しみがあると避けたくなります。いいとこ取りをしたいと。また、復活の喜びだけを受け入れて、それまでの準備はそこそこにしたいと。目の前の苦しみだけを見ていると不安になります。その先にある確かな喜びがないと、力が出てきません。イエス様の姿が変わったことも、そのような弟子たちの思いに寄り添った出来事だと思います。実は、イエス様はこの出来事の数日前に弟子たちにあることを語っておられました。「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」弟子たちは、イエス様が、人々から、ユダヤの主だった人々から苦しみを受けると、そして、殺されると、また復活すると教えられました。苦難と死のみを考えると、何とも言えない気持ちになります。弟子たちのことを心配してか、イエス様は山の上で、栄光の姿を現わされました。苦難の先にある栄光を弟子たちに示されました。イエス様は神様のみ心に従って歩まれました。目の前に苦難や死があるとしても前に進まれました。神様のみ心のゆえに、人を愛するがゆえに、エルサレムへと、苦難へと十字架へと向かわれました。わたしたちが神様の御心にかなう生き方をイエス様から学ぶとき、自分の栄光ではなく、神様の栄光のために、生きることを引き受けたいと思うのです。イースターの喜びに向けて、また、神の国の実現のために、わたしたちも、与えられた課題に向き合い、み心に従い歩んで行きたいと思います。 Read More

2026年2月8日 顕現後第5主日(A年) 「あなたがたは地の塩、世の光である。」

司祭 ヤコブ 岩田光正 今週の福音で、イエス様は、わたしたちに「あなたがたは地の塩」であると言われます。古来、塩は、世界中どこでも人間にとって必要不可欠の物でした。塩は、食物に味を付けることです。ただ塩加減はなかなか難しいものです。少なすぎると味気ない、反対に加えすぎても辛すぎます。また、これが大事、塩は他の味を引き出すためにも用いるものです。例えば、スイカ。塩がスイカの持っている甘みを引き出します。どちらにせよ塩は、隠れていて良い働きをします。 イエス様は、あなたたちは、この塩のように目立たないで他の人を引き立てたり、他の人が持っている本来の良さ、その良さをそっと陰で引出して上げることができる。イエス様は、わたしたちにそのことを言っておられるのではないでしようか。 「あなたがたは世の光である」この言葉も、同様のことを表しています。光は、周囲を明るく照らすためのもので、隠しておいては用を為しません。ただ、光も塩と同様、加減が必要です。眩しすぎても周囲から見えなくなってしまいます。また、ギラギラとした光は、人を落ち着かない気分にさせます。適度な加減で明るく照らす光は、人に安心を与えて、気持ちを穏やかにしてくれます。イエス様は、この光のように、世の闇を照らして、人に希望を与えることができる、イエス様はそのようにわたしたちに教えておられるのではないでしょうか? さて、私の勤務している幼稚園では、来週末、生活発表会が行われる予定です。先生たちが、連日、保育中は、子ども達一人ひとりに寄り添い、練習を指導、保育後も遅くまで色々な準備に励んでいます。そして、例年、当日は、決まって、どの家族も我が子の成長した姿に感動します、日頃、子育てに悩んでいるお母さんも目を潤ませたりして喜んでいる光景を見ます・・・ある意味、先生たちは、「地の塩、世の光」的な存在だといつも敬服させられます。目立たず、隠れたところで、いつも子ども達の持っている力をそっと引き出してあげる、そして、自分たちは目立たず、子ども達の姿から輝いている光によって安心や自信を与えています。 ところで、今の世の中、周囲を見渡せば、他者よりも過度に目立つことを求めたり、他者と比べて自分を輝かそうとギラギラと光を放とうとする、しかし、そのことで逆に人によっては、気分が穏やかでなくなってしまう。そんなことないでしょうか?ちょうど今、衆議院選挙を前に、どの候補者も物凄い熱量の訴えです。しかし、良い加減でないのです。個人的には、塩味が強すぎ、光の加減も明るすぎのように感じます。そのような今の状況の中、イエス様の語られた「あなたがたは地の塩、世の光である。」この言葉をわたしたちキリスト者は、どのように受け止めればよいのでしょう? いま一度、イエス様の言われた塩そして光について、考えてみます。塩は、必要不可欠であると共に、隠し味です。生命を陰で支え、引き立てる存在です。光も塩と同様、生命に欠かせない存在です。また、周囲を明るく照らして輝かせます。生命を穏やかに落ち着かせます。さらに、この点が大事です。塩と光、そのどちらも、あまりに身近すぎて、普段は、特別にその存在を意識しません。有り難みを忘れてしまいがちです。 以上のように考えてまいりますと、イエス様は、特別な努力をしなさいと仰っておられるのではないのではないでしょうか?目立たなくても、派手に輝かなくても良いのではないでしょうか?ただ、神様から与えられた生命を、隠れたところで、一生懸命、ありのままに生きていく、その自分のありのままの生き様を通して周囲の人のために生きる、そのことで自分の生き様でキリストの光が輝いていたら、それこそキリスト者が「塩」と「光」である、ということなのでしょう。 最後、イエス様は、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われています。「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」とは、命じられてはおられません。キリスト者である私たちは、その愛にいかされ、その愛に生きる私たちは、すでに地の塩であり、世の光であるのかもしれません。そのように普段の日々を歩んでいければと思います。 Read More

2026年2月1日 顕現後第4主日(A年) 幸いだから【マタイによる福音書5章1~12節】

司祭 マタイ 古本靖久 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章3節) 今日の福音書は、マタイによる福音書5章1~12節です。いわゆる「山上の説教」と呼ばれる箇所です。  心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。このように続いていくイエス様の言葉ですが、どのような人たちに語られたのでしょうか。 5章1節には、「イエスはこの群衆を見て」と書かれています。「この群衆」、それは4章23~25節に書かれている人たちです。いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人がイエス様の評判を聞いた人たちによって、連れて来られていました。その人たちは、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側からも来たそうです。 イエス様は、その人たちをご覧になりました。その人たちは苦しみ、痛み、病のただ中にいました。自分の力ではどうすることもできなくて、ただ何かにすがるしかありませんでした。その人たちをイエス様は見て、口を開き、語りだしたのです。「心の貧しいあなたがたは、幸いである」と。 心が貧しい、それは心がカラカラに乾ききって、もうどうしようもない状態です。その渇きを何とかいやそうとしても、自分では無理です。神さまにすがるしかない。神さまに頼るしかないのです。 イエス様は語ります。「そのようなあなたがたこそ、幸いなのだ」と。求めるときには、必ず与えられます。探すときには、必ず見つかります。門をたたくときには、必ず開かれます。神さまに寄り頼み、神さまにのみ信頼を置くときに、「あなたこそ幸いなのだ」と告げられるのです。 その喜びが、わたしたちの前にあります。そのことを心に覚え、歩んでまいりましょう。 Read More

2026年1月25日 顕現後第3主日(A年) 「人間をとる漁師」【マタイ4:12-23】

司祭 エレナ 古本みさ 今週の福音書は、漁師のペトロとアンデレがイエス様から「わたしについてきなさい」と声をかけられ、すべてを捨てて従うという弟子の誕生物語が記された箇所です。とても美しいシーンですが、長らく私はこの「人間をとる漁師」という表現に、どこか良くないイメージを抱いていました。強引な宗教勧誘を思い起こさせたり、困っている人を救ってあげるという“上から目線”のようにも聞こえたりしたからです。 しかし最近、ある本を読んで少し目が開かれました。旧約聖書の時代から、魚を捕る漁師はしばしば裁きの比喩として用いられてきました。マタイによる福音書14章の「天の国のたとえ」にも、そのような場面が見られます。 「裁き」という言葉も、私たちはついネガティブに受け取りがちです。しかしその著者は、裁きを「決断」と呼び、イエスの弟子となった者たちは「自分たちが本当は何者なのかを神と一緒に決める、その決断の瞬間へと人々を導く」と解釈していました。イエスを知ることは神を知ることです。そして同時に、自分が何者であるかを知ることでもあるのです。 私たちがイエスに従い、弟子になる決断をするとき、私たちはその教えをあまりに重視して、「より良い人間になるために自分の生き方を模索し続けること」がゴールのように思いがちです。しかし弟子の歩みは、実はもっと外向きで大きなことなのかもしれません。迷っている人に寄り添い、決断へと導く。そして、イエスの目を通して世界を見るように招くこと。そのような弟子の在り方を、大斎節に入るまでのこの緑の期節、心に留めていたいと思います。 Read More

2026年1月18日 顕現後第2主日(A年) 神様が差し示す者。(ヨハネ1:29-41)

司祭 ミカエル 藤原健久 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」洗礼者ヨハネは、イエス様を指し示しました。弟子たちはヨハネの声を聞き、イエス様に従い、救い主であると分かりました。 世の人々は「この人は偉い人だ、立派な人だ」と、色んな人を指し示します。けれども、人間の理解は不十分で、時には間違えます。私たちは、人々の指し示しではなく、神様が指し示す人を見つめ、従いたいと思います。 では、神様が指し示す人とは、どのような人でしょう。イエス様のみ言葉を思います。「心の貧しい人は幸いである、悲しむ人々は…、柔和な人々は…」イエス様が指し示したのは、世の人々から軽んじられ、時に無視されるような人々でした。この様な人々を、神様は指し示しされます。私たちは神様が指し示す人々を見つめ、従っていくのです。 神様は私たち一人一人をも指し示されます。けれどもそれは、世の人々とは違います。世の人々は私たちの強いところ、他人に勝つところを指し示します。けれども神様は、私たちの弱いところ、負けるところ、みんなと分かち合うところを指し示されるのです。 神様は、イエス様の十字架を、指し示されます。私たちは十字架に従っていくのです。 Read More

2026年1月11日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(A年) 「正しいこと」とは?

執事 サムエル 藤井和人 今日のマタイ福音書では、イエス様が、ガリラヤのヨルダン川で、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられる場面が描かれています。 イエス様が、救い主メシアであれば、悔い改める罪を犯しているはずがないのに、なぜヨハネから洗礼を受けられる必要があったのでしょうか。誰もが疑問を抱くことなのだと思います。けれども、イエス様は、それは「正しいこと」だと言われ、あえて自ら進んで、ヨハネから洗礼を受けられました。 それは、弱さや脆さを持った私たちと同じ人間の側に立たれるということが、本当の救い主メシアとして、神様のみ心に適うことなのだと、イエス様は、洗礼を受けられることを通して、身をもって私たちに示されたのだと思います。 神様のみ心に適うことを、イエス様は、一言で「正しいこと」であると言われます。神様のみ心に適うことが、正しいことである。それは、私たちが持っている人間的な正しさとは、ある意味で、正反対のものであるように感じます。 私たちは、日々の生活の中で、「自分は正しい」と思っていても、相手にとってはそうではない場合が多くあります。そのようなとき、自分の正しさについていけない人がいると、ついつい、その人を攻撃してしまう弱さと脆さを持っています。 私たちは、それぞれ異なった背景があり、それぞれの想いも持って、教会に集められます。そのように教会では、それぞれの想いが渦巻く中で、人間関係のトラブルによって、お互いに理解し合えず、妬みや争いが生じることもあります。 けれども、そのようなときこそ、洗礼を受けられたイエス様が示されたように、神様のみ声に耳を傾け、私たちが持っている正しさではなく、神様のみ心に適うことが何であるのか、何がなされるべきかを、神様の助けを求めながら、共に問うていくことが、私たちに示された道なのだと思います。 Read More