About Us
日本聖公会京都教区について
このたびは、日本聖公会京都教区のホームページをご覧くださりありがとうございます。
京都教区は、日本聖公会11教区の中で北から7番目南から5番目に位置しています。
9府県《京都府、大阪府の一部、奈良県、和歌山県、三重県、滋賀県、福井県、石川県、富山県》にまたがる教区です。
主教座聖堂は京都にあり、このことから京都教区の名称を持っています。
教会数は42(伝道所を含む)、日本聖公会の中で最も多い教会数の教区です。
信徒(現在堅信受領者)数は1,301人、聖職数は主教1人司祭26人(2022年度末)。
京都教区の教会は幼稚園や保育園などの多くの教会を併設して地域社会に貢献しています。
Topics & Message
メッセージとトピックス
主教のページ&主教メッセージ
主教 アシジのフランシス 西原廉太(中部教区主教・京都教区管理主教) 2011年3月11日、私は東京の立教大学におりました。理事会が始まる直前でした。書類は倒れライトは大きく揺れ、テレビをつけるとそこには大きな津波が人々を飲み込もうとしていました。都内の交通機関も麻痺し立教のキャンパスを開放しました。5千人近い人々と、私も大学で夜を明かしました。翌朝には、すでに言語を絶する状況が明らかになりつつありました。詩篇詩人の、苦難を前にして、舌が上あごに張りついて、神に祈ることすらできないという嘆きそのものの経験であったのです。 2012年5月に行われた日本聖公会総会における開会聖餐式での、当時の日本聖公会東北教区主教であられた加藤博道主教の説教は、深い洞察を私たちに与えてくれました。 「圧倒的な暴力と破滅的な状況の中で、なお『畑を買い、証人を立てよ』と主は言われる。人が生きていくという営みは『にもかかわらず』、圧倒的に希望を奪われた状況の中でも、続けられていく、『続けるようにと』主が言われるというのです。やはりそこには神の祝福、命の喜びがあるのだということを教会が語るならば、それは本当に、『にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声』なのだと思います」 「にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声」。この、「にもかかわらず」というところに、私たちの使命があるように思います。それがたとえ一見無力であったとしても、悲劇に満たされたこの世界、社会、絶望の内にある人々に対して、「にもかかわらず」、神の祝福、〈いのち〉の喜びを、語り続けること。それがたとえ、か細い声、小さな祈りであったとしても、語り続けること。それこそが、私たちの担うべきミッション、使命なのだ、ということを、私たちは学んだのです。 今、「日本は強い」など、「強くあること」が繰り返し声高に叫ばれます。そんな風潮に対して、私たちは、むしろ「弱さ」や「小ささ」に徹底して寄り添い続けることの意味を、身をもって証しし続けて行く責任があるのです。 主イエス・キリストは、弱くて、守られなければ生きることのできない「幼な子」として、この世にお生まれになりました。温かい宿屋ではなく、風すさぶ、寒い、寒い動物小屋にお生まれになりました。それは、まさしく、弱さや小ささこそが、実は祝福されるのだという福音の〈しるし〉そのものでありました。クリスマスとは、その小さき主のご降誕を、心から感謝し、祝う時なのです。
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今週のメッセージ
週替わりで各教会からのメッセージです
司祭 プリスカ 中尾貢三子 ヨハネ福音書9章には、生まれつき目の見えない人をめぐる出来事が記されています。 弟子たちはイエスに「この人が盲目なのは、本人か両親の罪のせいか」と尋ねました。当時の常識では、障がいや病いは罪の結果と考えられていたからです。しかしイエスは「神の業がこの人に現れるためである」と語り、唾でこねた土をその目に塗り、シロアムの池で洗うよう命じられました。彼がその通りにすると、目が見えるようになりました。 周囲の人々は驚きますが、同時に彼をひとりの人格としてではなく、噂の対象として扱います。ファリサイ派の人々のところに連れて行かれた彼は、そこで何度も「何が起こったのか」を問われ、そのたびに自分の経験を自分の言葉で語ります。その証しは次第に確信を増し、「あの方は神から来られた」と大胆に告白します。しかしその告白ゆえに、彼は信仰共同体から追放されてしまいます。 追い出された彼を、イエスは探し出し、「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。彼が「主よ、信じます」と答えたとき、彼は肉眼だけでなく、心の目も開かれたのでしょうか。イエスは続けて「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と語られました。神の前での在り方が語られた箇所でもあります。 私たちは、自分の考えや基準だけで他者を判断してしまうことがあります。「自分のほうが分かっている」と思い込むとき、相手を心の外に追い出してしまいます。ファリサイ派の人々も弟子たちも、その過ちを犯しました。しかしイエスだけは決して誰をも締め出されませんでした。見捨てられ、拒まれ、十字架に至るまで、人間の弱さとかたくなさにとことん寄り添われたのです。 大斎節も後半に入りました。イエスとはどのような方で、どのように人と向き合われたのか。そして私たちはこの方をどのように扱ってしまうのか。これは2000年前の物語ではなく、今ここで問われている出来事です。この方のまなざしに自分を照らしつつ、受苦日へ向かう日々を歩みたいと思います。
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