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The Diocese of Kyoto

About Us

日本聖公会京都教区について

 このたびは、日本聖公会京都教区のホームページをご覧くださりありがとうございます。
京都教区は、日本聖公会11教区の中で北から7番目南から5番目に位置しています。
9府県《京都府、大阪府の一部、奈良県、和歌山県、三重県、滋賀県、福井県、石川県、富山県》にまたがる教区です。
主教座聖堂は京都にあり、このことから京都教区の名称を持っています。
教会数は42(伝道所を含む)、日本聖公会の中で最も多い教会数の教区です。
信徒(現在堅信受領者)数は1,301人、聖職数は主教1人司祭26人(2022年度末)。
京都教区の教会は幼稚園や保育園などの多くの教会を併設して地域社会に貢献しています。

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Topics & Message

               

メッセージとトピックス

Dec 24 2025

主教のページ&主教メッセージ

主教 アシジのフランシス 西原廉太(中部教区主教・京都教区管理主教) 2011年3月11日、私は東京の立教大学におりました。理事会が始まる直前でした。書類は倒れライトは大きく揺れ、テレビをつけるとそこには大きな津波が人々を飲み込もうとしていました。都内の交通機関も麻痺し立教のキャンパスを開放しました。5千人近い人々と、私も大学で夜を明かしました。翌朝には、すでに言語を絶する状況が明らかになりつつありました。詩篇詩人の、苦難を前にして、舌が上あごに張りついて、神に祈ることすらできないという嘆きそのものの経験であったのです。 2012年5月に行われた日本聖公会総会における開会聖餐式での、当時の日本聖公会東北教区主教であられた加藤博道主教の説教は、深い洞察を私たちに与えてくれました。 「圧倒的な暴力と破滅的な状況の中で、なお『畑を買い、証人を立てよ』と主は言われる。人が生きていくという営みは『にもかかわらず』、圧倒的に希望を奪われた状況の中でも、続けられていく、『続けるようにと』主が言われるというのです。やはりそこには神の祝福、命の喜びがあるのだということを教会が語るならば、それは本当に、『にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声』なのだと思います」 「にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声」。この、「にもかかわらず」というところに、私たちの使命があるように思います。それがたとえ一見無力であったとしても、悲劇に満たされたこの世界、社会、絶望の内にある人々に対して、「にもかかわらず」、神の祝福、〈いのち〉の喜びを、語り続けること。それがたとえ、か細い声、小さな祈りであったとしても、語り続けること。それこそが、私たちの担うべきミッション、使命なのだ、ということを、私たちは学んだのです。 今、「日本は強い」など、「強くあること」が繰り返し声高に叫ばれます。そんな風潮に対して、私たちは、むしろ「弱さ」や「小ささ」に徹底して寄り添い続けることの意味を、身をもって証しし続けて行く責任があるのです。 主イエス・キリストは、弱くて、守られなければ生きることのできない「幼な子」として、この世にお生まれになりました。温かい宿屋ではなく、風すさぶ、寒い、寒い動物小屋にお生まれになりました。それは、まさしく、弱さや小ささこそが、実は祝福されるのだという福音の〈しるし〉そのものでありました。クリスマスとは、その小さき主のご降誕を、心から感謝し、祝う時なのです。

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Apr 02 2026

今週のメッセージ
週替わりで各教会からのメッセージです

司祭 セシリア 大岡左代子 「行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」(マタイ28:10) イースターおめでとうございます。2月18日から始まった大斎節を経て主の復活の喜びの日を迎えました。キリスト教はイエス・キリストの復活に出会った弟子たちが、イエスの行い、教えを伝えていったことから始まりました。日本という文脈においては、クリスマスの方が多くの人に馴染みのあるキリスト教の祭りですが、キリスト教においては復活祭がもっとも大切な祭りです。 あんなにイエスを慕い、イエスと共に過ごしてきた弟子たちは、イエスが捕らえられたと知ると皆逃げてしまいました。「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないというだろう」とイエスに言われ「決してそんなことはありません」と言ったにもかかわらず、ペトロや他の弟子たちは、皆イエスを見捨てて逃げてしまいました。イエスの最後を見守ったのはガリラヤからついてきた女性たちでした。その女性たちが、イエスの墓を見に行きましたが、墓の中にイエスの遺体はなく、主の天使からイエスは復活したことを告げられるのです。そして、ガリラヤで復活したイエスにお目にかかれる、と告げられました。女性たちは急いで弟子たちに知らせようと走り出した時、イエスが現れ、「きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」と言いました。 かつて「復活」ということがどうしてもわからず悩んでいた時、たまたまTVで聖書学者の方が、「ガリラヤで会おう、ということはつまり、イエスの教えに出会い直しなさい、ということなのです。」と言われたのを聞き、私は何かストンと落ちた気がしました。もちろん、イエスの直弟子たちは復活したイエスに出会ったのだろうと思います。どんな風に出会ったのか、科学的な視点では理解し難いかもしれませんが、彼らの目には確かに復活したイエスが見えたのだろうと思うのです。けれども、それだけでは、イエスの復活の意味はありません。そのイエスに出会った時、彼らの中には走馬灯のようにイエスと過ごした時が思い出され、それぞれが、イエスが語ったこと、行ったことの意味をようやく理解し始めたのではないでしょうか。使徒言行録によれば、復活したイエスは40日の間、弟子たちと共にいて天に昇られた、とされています。イエスを裏切り、信仰的には死んだも同然であった弟子たちは、復活のイエスに出会うことによって、新たに歩みだす信仰が与えられ、本当にイエスは神の子であったと心から告白し、イエスの教えを伝えて回ったのでした。それは弟子たちにとっても「新たないのちの始まり」であり「復活」の出来事だったのではないでしょうか。人間が信じがたい出来事に出会う時、聖書は「恐れることはない」と語ります。それは人間の思いをはるかに超えたところで神が働いておられるから「恐れるな」という意味なのではないかと思うのです。 今日から始まる復活節、恐れを主に委ね、新たないのちに生きる者でありたいと思います。

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May 02 2025

京都教区各伝道区

到着しだい、ぞくぞくとUPしていきます。教会のようすなどもお知らせください。

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