Loading...

 Messages

bishop

主教メッセージ

2025年12月25日 降誕日 福音の〈しるし〉としての主のご降誕

主教 アシジのフランシス 西原廉太
(中部教区主教・京都教区管理主教)

2011年3月11日、私は東京の立教大学におりました。理事会が始まる直前でした。書類は倒れライトは大きく揺れ、テレビをつけるとそこには大きな津波が人々を飲み込もうとしていました。都内の交通機関も麻痺し立教のキャンパスを開放しました。5千人近い人々と、私も大学で夜を明かしました。翌朝には、すでに言語を絶する状況が明らかになりつつありました。詩篇詩人の、苦難を前にして、舌が上あごに張りついて、神に祈ることすらできないという嘆きそのものの経験であったのです。

2012年5月に行われた日本聖公会総会における開会聖餐式での、当時の日本聖公会東北教区主教であられた加藤博道主教の説教は、深い洞察を私たちに与えてくれました。

「圧倒的な暴力と破滅的な状況の中で、なお『畑を買い、証人を立てよ』と主は言われる。人が生きていくという営みは『にもかかわらず』、圧倒的に希望を奪われた状況の中でも、続けられていく、『続けるようにと』主が言われるというのです。やはりそこには神の祝福、命の喜びがあるのだということを教会が語るならば、それは本当に、『にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声』なのだと思います」

「にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声」。この、「にもかかわらず」というところに、私たちの使命があるように思います。それがたとえ一見無力であったとしても、悲劇に満たされたこの世界、社会、絶望の内にある人々に対して、「にもかかわらず」、神の祝福、〈いのち〉の喜びを、語り続けること。それがたとえ、か細い声、小さな祈りであったとしても、語り続けること。それこそが、私たちの担うべきミッション、使命なのだ、ということを、私たちは学んだのです。

今、「日本は強い」など、「強くあること」が繰り返し声高に叫ばれます。そんな風潮に対して、私たちは、むしろ「弱さ」や「小ささ」に徹底して寄り添い続けることの意味を、身をもって証しし続けて行く責任があるのです。

主イエス・キリストは、弱くて、守られなければ生きることのできない「幼な子」として、この世にお生まれになりました。温かい宿屋ではなく、風すさぶ、寒い、寒い動物小屋にお生まれになりました。それは、まさしく、弱さや小ささこそが、実は祝福されるのだという福音の〈しるし〉そのものでありました。クリスマスとは、その小さき主のご降誕を、心から感謝し、祝う時なのです。

2025年4月20日復活日 希望の主イエス

希望の主イエス
京都教区管理主教・東北教区主教
主教 フランシス長谷川清純

イースターおめでとうございます。 ご復活の主の祝福が皆様にありますように!

金曜日に十字架に掛けられ息を引き取られたイエス様は、その日のうちに慌ただしく墓に葬られました。何故ならユダヤの安息日つまり土曜日の前日であり、11人の弟子たちはユダヤ人を恐れ隠れてしまったからです。
ルカによる福音書によれば、2日を過ごした週の初めの明け方早くに、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、一緒にいた他の女たちは、おそらくせめて香料をお塗りしましょう、せめて亡骸に触れお別れをしたいという気持ちで墓に出向きました。ところが、ご遺体を目にすることができず戸惑い、打ちのめされた感じで途方に暮れました。
その時、お声が聞こえてきました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

復活とは、「そこにとどまらない、そこに縛られないで、イエス・キリストのお言葉を思い起こす」ことです。かつてイエス様が約束されたように、ご復活の主は、あなたがたの現実生活の中に必ず共にいてくださいます。ご復活の主は、いつも共にそして永遠にいてくださいます。
私たちの人生途上にはご復活の主が常に共にいてくださることを、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていた物語が伝えます。二人が話し合い論じ合っている真っただ中に、イエスご自身が一緒に歩いて行かれました。同行されるご復活の主、同伴者イエスがそこにおられます。二人は後になって気が付きます。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」私たちは変革を恐れます。改革には怖気づきます。しかし聖書のみ言葉を黙想して導かれる時、情熱と信仰は恐怖を凌ぐでしょう。

主イエス様のみ言葉を胸に抱き導かれて、お恵みに感謝しながらここから歩み出して行きましょう。栄光に輝くイエス様の光を見つめながら導かれて参りましょう。主にある皆さんとお互いに「主の平和がありますように」とご挨拶を交わしましょう。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」 ハレルヤ!

2024年3月31日 復活日 「負けました」

負けました
京都教区主教
主教 ステパノ高地敬

 人間を含む霊長類は二足歩行ができるようになって、遠くが見えるようになり、手が使えるようになりました。二足歩行のお陰で方向転換もしやすくなったのではないかと思います。

 あるスポーツの日本代表選手がテレビのインタビュ―を受けていて、「足は何のためにあると思いますか?」とアナウンサーに逆に聞いていました。「さぁー、歩いたり走ったりするためでしょうか」、「それもありますが、足は逃げるためにあるのだと思います」と言って、人種差別でいじめられた生活を振り返っていました。逃げるしかないつらい状況を何度も経験して来られたのだと思います。

 自動車についていて道順を教えてくれるカーナビは、運転手が間違うと、元の道順に戻そうとします。でもカーナビには直進と右折と左折しかなくて、「ターン」も「バック」もありませんので、大回りに回って、何とか元のところに戻そうとします。「前進あるのみ」は融通が利きません。

私たちは二足歩行で後退も簡単にできるようになったのだと思います。後退のできる動物は意外とたくさんいるようですが、突然猛獣などに遭遇したときに、相手の様子をうかがいながらそっとバックする。ある程度距離が空いたところで、ターンして懸命に逃げる。二本足で走るのでスピードが遅くなった分、後退が上手になったのかも知れません。

私たちは小さな頃から、少しくらい困難な状況であれば、そこから逃げてはいけないと知らない内に教えられてきたように思いおます。「前進あるのみ」、「後退してはいけない。」少し嫌な状況でも逃げずに頑張って立ち向かう。でも、人によって感じ方は色々です。怖い動物に遭遇してもひるまない人もいるでしょうし、子犬でも嫌だという人もいます。

イエスさまは、「みんな、どんな時にも逃げるな」とは言われませんでした。逆に、みんなのあるがままをまず尊重してくださいました。「逃げるが勝ち」は、「逃げれば、その結果勝つことができる」ということのようですが、「逃げるが負け」でもいいじゃないか。十字架上のイエスさまの姿は「逃げるが負け」だったのではないかと思います。

将棋などで負けた時、「参りました」ではなく、「負けました」と言うようです。負けをはっきり認めるのはつらいことですが、「負けました」で終わる。イエスさまは十字架にかかられて、もう相手に手向かいしない、手向かいできない、徹底的に負けている姿がそこにありました。

負けて逃げるのは卑怯なのでしょうか。十字架は、負けることがよくある私たちへの同情と共感と慰めの姿だったのだと思います。そして、いろんなことによく負ける私たちに、「負けを認めて、でも、それでも何とかやっていける」という、新しい生き方がそこに示されているのではないでしょうか。。

2022年12月25日  降誕日 暗いから

暗いから
京都教区主教
主教 ステパノ高地敬

 私たち一家は10月に引っ越しましたので、それからだいたい毎日自転車で通勤しています。10分もかかりませんが、車の多い道は避けて、御所の中を通るようにしています。御所の中の広い通路は砂利が敷いてあって、自然に自転車道ができているのですが、慣れた人は砂利の敷いていない裏道を使っていて、私もようやくその道を覚えました。ただ帰りはとても暗いところがあって、自転車の明かりだけで行くのは少し不安です。ほとんど真っ暗なのにときどき歩いている人がいて、「わっ」と声を出しそうになります。

 昼間だとなんでもない道ですが、暗いと怖い。車止めにぶつかるかも知れませんし、突然人が現れます。逆に歩いている人からすると、「前から来た自転車の男に驚かれ、とても心外だ。」
 昔の夜道は大変だったと思います。ろうそくをつけた提灯の時代が長かったと思いますが、その前は油の明かりでしょうか。雨降りの夜はどうしたのでしょう。月明りだけで結構明るい一方で、月が出ていなければ真っ暗です。忍者のように、「夜陰に乗じて」ということもありますが、昔はできるだけ夜は出歩かなかったのでしょう。
 モーセに率いられてエジプトを脱出した人たちについて、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」いつ休んだのか分かりませんが、とにかく夜も明るかったようです。夜には神さまが灯となってくださる。
 2000年前のベツレヘム近郊の羊飼いたちも、暗い中を懸命に救い主の生まれたところを探したのだと思います。今も、暗い中で怖くても歩かないといけない人たちがいますし、心の中に闇を抱えていて、その中でも歩かなければならないことがあります。
 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:5)」輝く光があるけれども、それで暗闇がなくなったわけではないようです。明るい昼間に灯はいらないのですが、心に闇が残っている限り光が必要で、その光は私たちにとって、「神の言」であるイエスさまでありました。
 神学生の時にもらった壁掛けには「あしたのあさまでおまもりください」と書かれています。私たちも同じようにお祈りできればと思います。「私の内と外とに闇があるときは、ずっとお守りください。朝が日の光で明るくなるように、私の心にもあなたの光が差しますように。」