主教 アシジのフランシス 西原廉太
(中部教区主教・京都教区管理主教)
2011年3月11日、私は東京の立教大学におりました。理事会が始まる直前でした。書類は倒れライトは大きく揺れ、テレビをつけるとそこには大きな津波が人々を飲み込もうとしていました。都内の交通機関も麻痺し立教のキャンパスを開放しました。5千人近い人々と、私も大学で夜を明かしました。翌朝には、すでに言語を絶する状況が明らかになりつつありました。詩篇詩人の、苦難を前にして、舌が上あごに張りついて、神に祈ることすらできないという嘆きそのものの経験であったのです。
2012年5月に行われた日本聖公会総会における開会聖餐式での、当時の日本聖公会東北教区主教であられた加藤博道主教の説教は、深い洞察を私たちに与えてくれました。
「圧倒的な暴力と破滅的な状況の中で、なお『畑を買い、証人を立てよ』と主は言われる。人が生きていくという営みは『にもかかわらず』、圧倒的に希望を奪われた状況の中でも、続けられていく、『続けるようにと』主が言われるというのです。やはりそこには神の祝福、命の喜びがあるのだということを教会が語るならば、それは本当に、『にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声』なのだと思います」
「にもかかわらず語り続ける細い声、祈りの声」。この、「にもかかわらず」というところに、私たちの使命があるように思います。それがたとえ一見無力であったとしても、悲劇に満たされたこの世界、社会、絶望の内にある人々に対して、「にもかかわらず」、神の祝福、〈いのち〉の喜びを、語り続けること。それがたとえ、か細い声、小さな祈りであったとしても、語り続けること。それこそが、私たちの担うべきミッション、使命なのだ、ということを、私たちは学んだのです。
今、「日本は強い」など、「強くあること」が繰り返し声高に叫ばれます。そんな風潮に対して、私たちは、むしろ「弱さ」や「小ささ」に徹底して寄り添い続けることの意味を、身をもって証しし続けて行く責任があるのです。
主イエス・キリストは、弱くて、守られなければ生きることのできない「幼な子」として、この世にお生まれになりました。温かい宿屋ではなく、風すさぶ、寒い、寒い動物小屋にお生まれになりました。それは、まさしく、弱さや小ささこそが、実は祝福されるのだという福音の〈しるし〉そのものでありました。クリスマスとは、その小さき主のご降誕を、心から感謝し、祝う時なのです。