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今週のメッセージ

2025年6月15日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(C年)ヨハネによる福音書16: (5-11) 12-15

司祭 マーク・シュタール 三位一体主日は、父と子と聖霊の三つが合わさったことを覚える日ですが、この特別な主日は毎年、聖霊降臨日の次の日曜日に巡ってきます(今年は6月15日です)。私は先週、香蘭の生徒たちにも説明しましたが、この機会に京都教区の皆様にも三位一体主日の話をしたいと思います。 私は数年前、18世紀に南インドで宣教した人の日記を読みました。彼はケララ(Kerala)と言う所で宣教していましたが、突然ケララ人たちが「三位一体、どうして三つの物が一つになり得るのか?」と理解できずにいたので、宣教師は困り果てた末、小さな器と水の入った水差しを取り出しました。そして、水差しから3滴水を器に落としました。1滴ずつ、「これが父、これが子、これが聖霊」それから器を揺らすと、当然ながら3滴の水は合わさって1つになりました。「ほら!3つあった物が1つになったでしょう!もう、ばらばらにはならないでしょう」。ケララの村人たちは納得して、三位一体の意味する所を理解し、その後この宣教師は大成功を収めたのです。 クリスマス、復活日、聖霊降臨日、キリスト教の主要なお祭りは神様が行った出来事を祝していますが、三位一体主日は神様が定められたことではなく、人間が作ったものです。この主日を始めたのは、カンタベリー大司教のトマス・ベケット(Thomas Becket)です。彼は1162年の聖霊降臨日の次の日曜日に大司教に着座しました。そして、それを記念するためにこの特別な記念日を設けたのです。彼は8年後の1170年にヘンリー2世の家来によって殺されてしまいましたが、父と子と聖霊の三位一体を祝う習慣はすぐにキリスト教の間に広がっていきました。 さて、この特別な主日が巡って来たということはキリスト教のカレンダーでは、幾つかの大きなイベントが終わったことを意味します。同時にキリスト教の学校として私たちの使命、仕事が始まるということでもあります。つまり、神様がなさるべきことは終わり、イエス様が伝えるべきことが伝えられ、使徒や弟子たちの務めが成し遂げられ、ついに私たち一人一人が使命を果たすときが来たのです。 今年(C年)の三位一体の主日の福音朗読は、ヨハネによる福音書16章5~15節です。この中で、イエスは弟子たちに、彼らがこれから歩む困難な人生を覚悟させています。弟子として、彼らは多くの試練と苦難に直面するでしょう。しかし、彼らは信仰を守らなければならないのです。そのためには支えが必要です。その支えは聖霊によって与えられます。イエスは、この聖霊が行動の基準を明らかにし、何が正しくて何が間違っているかを明らかにし、彼らを教育し続けると述べています。特に、イエスが言い残したことが聖霊によって明らかにされます。漸進的な啓示が続きます。キリストにおいてすでに示されている真理は、決して変わることはないです。 しかし、この聖霊によって、弟子たち一人ひとりをさらに明確にすることができるのです。 弟子たちに対するこの準備は、私たちも耳を傾けることができます。 私たちもまた、神の言葉を聞き、私たちに対する神の大いなる愛を体験してきました。また、私たちを救うために遣わされたイエスの鋭い啓示を、その模範によって感じてきました。私たちはまた、これから何が起こるのだろうかと思い悩み、ただ聖霊の介入と真理の啓示を受けてきました。 この朗読を読むと、ケララの宣教師と、彼がいかに聖霊の霊感を受けたかを思い出します。「これが父、これが子、これが聖霊」それから器を揺らすと、当然ながら3滴の水は合わせて1つになりました。「ほら!3つあった物が1つになったでしょう!もう、ばらばらにならないでしょう」 Read More

2025年6月8日 聖霊降臨日(C年)「聖霊が降る」 

司祭 ヨシュア 大藪義之 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。(ルカ2:1~(聖書協会訳新共同訳)  ペトロと11人の弟子たちが共に立って、声を張り上げ、話し始めたその内容は…、『ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神はこの方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。あなたがた自身がご承知のとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです。 神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。  あらゆる国の言葉で語られたこの福音を聞き、心を打たれた人々は「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのか」と問い、ペトロは「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」 イエス様が弟子たちや群衆に語られた時には、難しい言葉などではなく、たとえなどを用いて聞く人々が理解できる言葉で語ってくださいました。コロサイ4:6には「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」とあります。「快い=カリス」は「恵み、優しさ、感謝」という意味があります。またエフェソ4:29には「ただ、聞く人に恵み(カリス)が与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」とあります。私たち聖職も信徒もそのような言葉でイエス様の出来事を一人ひとりが証しするときに「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」という出来事が起き、「 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」となっていくのではないでしょうか?  今、教会に足りていないこと。それは信徒一人ひとりがイエス様の証人になることではないでしょうか? 難しい説教よりも「分かりやすい証し」を大切にしてみませんか? Read More

2025年6月1日 復活節第7主日(昇天後主日)(C年) 「祈られている私たち」

司祭 セシリア 大岡左代子 使徒言行録1章3節には、復活したイエス・キリストは四十日の間、再び使徒たちと過ごしたことが記され、その後、天に挙げられます。教会の暦ではその日を「昇天日」としておぼえますが、今年は5月29日でした。その昇天日に読まれるマルコによる福音書では、復活のイエスが残った11人の弟子たちに現れます。復活のイエスに出会ったというマグダラのマリアや他の人の話を聞いてもなおイエスの復活を信じない弟子たちにイエスは現れ、彼らの不信仰と頑なな心を咎められます。それでも「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と宣教命令を出されるのです。その後、イエスは天に挙げられた、と記されています。不信仰で頑なな弟子たちを咎めてもなお、宣教の業を託された、ということがとても印象的な昇天日の聖書箇所です。 そして、今日の主日はその昇天後の主日です。昇天後主日に読まれる福音書は、ヨハネによる福音書17章に記されている「イエスの祈り」です。この「イエスの祈り」はイエスが十字架にかけられる直前、死を前にしたイエスの究極の時の祈りとして記されています。 今年は、その祈りの最後の部分が指定されています。これらの言葉が、弟子たちへの教えや説教ではなく、神に向けた言葉であり祈りであることに意味があります。その全体を通して祈られているのは、「わたしたちのように彼らも一つとなるため」「すべての人を一つにしてください」と、神とイエスと彼らの一体性についてです。この「彼ら」という言葉には、弟子たちの言葉によって「私を信じる人々」が含まれています。それは今を生きているイエスを信じる人を含みます。イエスはこの祈りでもって信仰を持つ人々の未来を神に委ねられました。今も私たちのただ中で、イエスが祈ってくださっており、私たちもこの祈りの中に招かれているのです。 イエスが天に挙げられたあと、弟子たちはもうイエスの姿を肉の目でみることはできなくなりました。きっと孤独感に陥り、見捨てられたような思いを抱いたことでしょう。けれども、イエスが祈ってくださったことを思い起こす時、弟子たちは力をもらい励まされたのではないかと思います。「神とイエスと自分たちはひとつ」であることにすべてを委ね、彼らも「祈り」「祈られる」存在になっていきました。私たちも、イエスの弟子たちが孤独感や不安のなかから歩み出したことを思い起こし、「祈ること」「祈られること」の体験のなかで信仰が強められ、新たにされていきたいと思います。 ※日本聖公会では、2020年から世界的な祈りの運動『Thy Kingdom Come(み国が来ますように)』に参加しています。昇天日から聖霊降臨日までの11日間の祈りのしおりが今年も発行され各教会に届いています。日々の祈りにご活用ください。 Read More

2025年5月25日 復活節第6主日(C年)

司祭 クリストファー 奥村貴充  私が神学生の時、夏の3週間に施設や病院などに行き、自分の課題を掘り下げていく実習がありました。ある神学生がゼミの中で言いました。「特別なことをしないことの大切さ」と。例えば施設なんかに実習に行くと、実習の神学生は何か仕事などをするわけではなく、ゆっくりと向き合っている人の傍らにいながら接することができます。こうした傍らに立って、そばにいる大切さを先ほどの神学生は「特別なことをしないことの大切さ」と、ゼミで発言したのだと思います。こういう姿勢は本当に大切だと思います。  イエスは宣教活動をされていた頃、さまざまな人の傍らにいて生きる力を与え続けました。それは宗教の専門家のように「このようなルールを守ったら、そうすれば解決する」と明確な答えを出したわけではありません。生きることの困難さに直面している人にとって、当時の社会で仲間外れにされていた人にとってイエスが傍らにいて共に考えました。そして共に歩もうとしました。そうするイエスの姿に人々は神の力を感じ、生きる力が与えられ、また立ち上がって行こうとする奇跡が働いたわけです。  私たちも同じことが言えるかと思います。私たち人間は人生の旅路を続ける中で様々な困難に遭遇します。そういった時に傍らに立って一緒に歩んでくれる人がいたとしたら、どんなに心強いことでしょうか。逆に、私たちは困っている人に出会うことがあります。そういった時、何か解決策を言おうとして必死にもがいた経験は誰もが持っていると思います。  しかし、難しいことは考えなくて良いのだと思います。何かをするわけでもなく、ただ傍らにいて困難さや痛みを共有する姿勢は、相手にとってどれだけ力強い勇気を起こさせることでしょうか。まさにその神学生が言ったように「特別なことをしないことの大切さ」がそういうところに求められています。  逆に、何かをしようとして「こういうことをした方が良い」とか「そうすべきではない」とかアドバイスめいたことを言ったとしても、それは自分の価値観の中に相手を引き入れているだけのことになりかねません。また、困っている人は必ずしも的確な答えを求めているわけではないでしょう。自分のことを分かってほしい、重荷を一緒に担いでほしい、ただそれだけのことが多いわけです。そういう時に、何か解決してあげようとするところに落とし穴があります。そういうのは全て神の導きに委ねればいいと、聖霊が教えてくれるとイエスはおっしゃっています。  私たちは主イエスが再び来られる時までイエスを直接に見ることはできません。しかし、私たちが困難さを覚えている人の傍らに立つときに、あるいは逆に生きることにつらさを感じている自分の横に誰かが寄り添って問題を分かち合ってくれるそういう時、すでにそこに聖霊の力が働いているのではないかと思えるわけです。  課題を抱える人に接しようと際、自分が「何かせねば」と思って張り切って何かしようと思ったら自分もしんどいだけです。私たちは神の働きに従い、それに倣って協力するだけで、あとは神にお任せするだけでいいのだと思います。何か特別なことをするというのではなく、一緒に重荷を背負うときに、教会が「慰めの共同体・教会」となり得ると言えましょう。 Read More

2025年5月18日 復活節第5主日(C年)「イエスさまが私たちを愛してくださったように」【ヨハネ13:31-35】

司祭 サムエル 奥 晋一郎 今週の福音書はヨハネによる福音書第13章31節から35節までの箇所です。イエスさまが弟子たちに語りかけている箇所です。最初に「ユダが出ていくと」とあります。これはイエスさまを裏切ったイスカリオテのユダのことです。ユダが出て行った後に、イエスさまは弟子たちに言われます。今、自らが栄光を受けた、また神様も栄光を受けられたと言われます。イエスさまと神様のとの関係は父と子、親子関係であることを表しています。この栄光とはどのようなものでしょうか。人々が称賛する、華やかな栄光でしょうか。そうではありません。この箇所での栄光は苦難の十字架と復活です。このイエスさまが自ら、神様の心、み心のままに歩まれた苦難の十字架と復活によって、神様とイエスさま、どちらにも栄光を受けることができました。また、イエスさまは弟子たちに今しばらくは共にいるが、イエスさまが行くところ、天国にはまだ弟子たちは行くことはできないと伝えます。さらに、イエスさまは弟子たちに、新しい掟を与えると言われます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われます。 イエスさまは弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われます。弟子たちが互いに愛し合う前に、まずイエスさまが弟子たち一人一人を愛してくださっていました。ただ、弟子たちはイエスさまからの愛を受け止めることはできませんでした。なぜなら、弟子たちが、イエスさまに望んでいたのは、イエスさまが当時、ローマ帝国の支配下にあった、ユダヤの国を、ローマ帝国の支配下から独立させるための、メシア・救い主でした。しかし、イエスさまは彼らの望むような行動をしませんでした。それよりも、イエスさまは自ら小さくされている人、子どもなど、弱い立場に置かれている人を癒し、慰め、励まし、日々を過ごされました。そして最後に十字架の道を歩まれ、すべての人に神様からの罪の赦しを示されました。さらに、イエスさまが3日後に復活され、弟子たちに現れてから、弟子たちはイエスさまの十字架、本当の愛を受け止め、イエスさまの言葉を信じ、イエスさまのことを伝えていく人へと変えられました。それは弟子たちの当初の思いを超えたものです。弟子たちはイエスさまが自分たちを本当に理解し、大切にされたことを受け止めました。 そして、このイエスさまが弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように」言われたように、私たちにもイエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われています。このイエスさまが私たちに示してくださっている愛である十字架の出来事、そして復活の出来事を受け止めることが大切です。そのために、私たちは教会に集い、礼拝を行い、その中で聖書のみ言葉を聞き、聖歌を歌い、イエスさまの体と血を表す聖餐にあずかります。さらに、私たちはイエスさまの体と血を表す、聖餐にあずかることの感謝のしるしとして、イエスさまは私たちに互いに愛し合うこと、互いに大切にしあうようにしていきたいと思います。このことを心に留めて、私たちはこれからも教会に集い、共に感謝と賛美の礼拝をおささげしていきましょう。 Read More

2025年5月11日 復活節第4主日(C年) ヨハネ10:22-30

司祭 プリスカ 中尾貢三子  神殿奉献記念祭の時の出来事でした。神殿奉献記念祭とは、11月~12月にエルサレムで8日間営まれる全国的なお祭りのことです。シリア王アンティオコス四世によるエルサレム攻略、神殿の略奪に対して祭司マタティアらによる「マカバイ戦争」により紀元前165年に神殿を奪還し、清めて奉献したことを記念して行われる祭りのことでした。時期は冬、乾燥地域故の昼夜の気温差の大きいことなどを考えると、決して穏やかな季節でなかったことは確かでした。  ソロモンの回廊は律法学者たちがその場所で説教を行う場所でした。そこを歩いておられたイエスさまをユダヤ人たちが取り囲んで問い詰めました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。メシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい。」それに対してイエスさまは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。(中略)しかし、あなたたちは信じない」と言われたのでした。なぜなら「わたしの羊ではないからだ」と。  羊というと、ふわふわもこもこしたあの姿や、群れて移動する光景が思い浮かぶと思います。羊は群れることで外敵から身を守ります。先頭にたつ者について動く習性があるため、羊飼いや牧羊犬により、かなりの頭数を飼育することが可能になります。 羊は飼い主についていれば、安全で食べ物の心配もない、とわかっているので、羊飼いの声や指示に従って動きます。その習性を逆手にとって、盗まれることもあったことでしょうが、信頼している飼い主の声や仲間の牧羊犬を間違えることは、あまりなかったのかもしれません。自分の羊の群れに対する合図が、別の羊の群れに通じないなどによって区別することも可能だったかもしれません。  これまで何度も伝えられたご自身の受難の復活のメッセージを受け止めることができないユダヤ人や律法学者たちに向かって、イエスさまは「わたしの羊ではない」という表現を使われました。続けて「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言われます。そしてイエスさまの声に聞き従う羊たちに永遠のいのちを与えてくださるというのです。父なる神がイエスさまにあたえてくださった羊=神さまのために共に歩む仲間たちは、決して滅びることもなく、誰も神さまから引き離すこともできず、ずっと一緒にいるのだと言われます。神さまとイエスさまが一つであるように、イエスさまの声に聞き従う羊たちもまた、一つであり、その結びつきは誰にも奪えるものではないのです。  受難と復活の出来事を経て、イエスさまから離れない、共に歩むと心を固めた人々に向かって、イエスさまは、その結びつきの強さと永遠を約束してくださっています。羊のように迷い出ても、探してくださる方のこの約束ほど、心強いものはないのではないでしょうか。 Read More

2025年5月4日 復活節第3主日(C年)

司祭 ダニエル 鈴木恵一 ともに食事をする、というのは、人と人とのつながりを確かめ合う出来事でもあります。教区のキャンプで、親しくなっていくのも、食事を共にすることが欠かせません。感謝の気持ちをあらわすために食事に招くということもあります。また、家族のつながりを再確認するのも食卓だったりします。このように弟子たちの前でイエスさまが食卓をともにされたと言うことには、つながりが回復していく特別な意味があります。 でも、弟子たちはイエスさまの手足を見たり、イエスさまが食事をとるところを見て信じたというわけではありません。弟子たちが本当に信じる者に変えられるのは、イエスさまが「彼らの心の目を開」かれたからでした。わたしたちも信じる者となるために、わたしたちのこころに働きかけてくださる イエスさまと聖霊の働きに 心を開くことが求められています。 この朝食のときイエスがご自分の手でパンや魚を与えた姿は、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を養われた時の姿や、最後の晩餐の時ときに弟子たちにパンを分け与えられた時の姿に重なります。弟子たちの誰もが、そのことを思い出したに違いありません。この後しばらくしてイエスさまが昇天し、聖霊が降り、教会がはじまります。そのとき教会は、四つのこと、「使徒たちの教え」と「交わり」、「パン裂き」と「祈り」に専念しました。「パン裂き」とは聖餐式のことで、それは毎週の礼拝の中心でした。使徒たちは、礼拝に集まる人々に、イエスさまの十字架の出来事を語り、イエスさまご自身が和解のいけにえとなってくださったことを感謝しました。そのとき、ご復活ののちのこの朝の食事のこともきっと思い起こしたことでしょう。 Read More

2025年4月27日 復活節第2主日(C年)心の戸【ヨハネによる福音書20:19-31】

司祭 アンデレ 松山健作 誰しも人や物事、いずれの場合でも心を閉ざしてしまえば、その対象への理解は深まりません。いや、むしろ心を閉ざしているのであれば、その対象から遠ざかりたいという心理さえ働きます。どのような文脈で心を閉ざすことになったのかは、それぞれ異なるかも知れません。 イエスさまの弟子たちであれば、どうだったでしょうか。共に生活し、師と仰いでいた先生が十字架に磔にされてしまいます。自分たちが信じてきたものは何だったのか。メシアではなかったのか。救いとは何か。またイエスの一味であるため、逮捕されるかも知れないという恐怖が彼らを襲っていました。 そのような状況の中で弟子たちは、家の中に隠れ、戸をしっかりと閉めて隠れていました。その一方で墓に向かった女性たちは、いち早く復活のイエスさまに出会い、そのほかの弟子たちにもその吉報を伝え始めていました。けれども、男弟子たちは「わたしは主を見ました」という信仰告白に耳を傾けることができず、心の戸が閉じられたままでした。 女弟子たちが復活という出来事に触れた翌週、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」いました。おそらく通常の家には、戸がいくつかはあったのだろうと思います。原語のギリシャ語では、「戸」と訳される言葉は複数形で記されています。 しかし、この鍵がかけられ閉じられていた「戸」は、物理的な扉や窓だけではありません。ここに集まっている弟子たちの心の状況を表す言葉ともなっています。つまり、復活が神によって起こされ、イエスさまのみ言葉が成就していたにもかかわらず、それを信じることのできなかった弟子たちの閉ざされた心の「戸」の状態が記されています。 イエスさまは、そのような弟子たちの状況の中に「あなたがたに平和があるように」とご復活をお示しになります。その時、弟子たちの頑なな心と恐怖は喜びへと解放されました。私たちもイエス・キリストのご復活に出会うことによって、私たち自身の閉じられた心が解放され、喜びと希望をもってこの世を歩む者になるよう遣わされたいと思います。 Read More

2025年4月20日復活日(C年)サソリの祈り【ルカ24:1~10】

司祭 ヨハネ 黒田 裕 ちょうど5年前になりますが、ヴァージニア神学校への「日本に居ながら」留学を始めた関係で管区の聖職試験委員会から外してもらったので、今はもうそうではないのですが、それまでは、この時期には決まってその委員会があったので、毎年のようにこの頃には東京出張に行っていました。そんなサイクルで東京に行っていた頃、今からもう十数年前のちょうどこの時期のことです。試験委員会が思いのほか早く終わりました。そこで、せっかく東京まで来たのだからと、そのころ話題だった東京スカイツリーに行ってみることにしました。 おじさんひとりでスカイツリーというのもどうかとは思いましたが、300メートルを越える高さの眺めはどんなものか一度見てみよう、と期待して行ったのですが、あいにくの曇り空です。一応一つ目の展望台まで登りましたが、視界はゼロ。観光客が上がることのできる一番高い二つ目の展望台は断念しました。 ということで、スカイツリーのほうはとても残念な結果に終わりました。しかし、何気なく入った、併設されているプラネタリウムが、予想以上によかったのです。プラネタリウムというもの自体が、いったい「前回はいつ?」というほど久しぶりでした。しかし、今回のものは私が知っているプラネタリウムとは似て非なるものでした。確かに星々が天球に映し出され、星座の紹介があるにはあるのです。けれども、むしろドームシアターという感じで、ドーム状のスクリーンに映し出された映画をみているようでした。 もちろんそうした技術もすばらしいのですが、私が「行ってよかった」と思えたのは、むしろ作品の内容でした。上映時間によっていくつかのタイトルが選べるのですが、私はちょうど時間が合っていたのと、ある関心から、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をモチーフにした作品を選びました。 ある関心というのは、次のような微かな記憶から来ています。小学4年生くらいでしょうか、家の本棚で、ふとこのタイトルが気になって読んでみたのです。しかし、どうも意味がよく分からないままでした。そんな記憶がこれを機に甦り、どんなストーリーだったのか確かめてみたくなったのです。上映作品では実際そのあらすじがよく分かるものでしたし、賢治の作品世界が見事に映像化されていました。と同時に、原作のほんとうの結末は明かされていない、という心憎い配慮もありました。 もしかしたら、今さら「銀河鉄道の夜」か、と思われる方もいるかもしれません。しかし、私にとっては、こういう内容だったのか、と目からウロコが取れるような思いでした。そのため見終わったあと、その足ですぐに八重洲ブックセンターに向かい文庫本を求めました。そして、「早割」で予約していた新幹線までにはまだ時間があったので、喫茶店へ直行し、思わずそこで、いっきに読んでしまいました。 そもそも今回あらためて知ったのは、銀河鉄道とは、北十字とも呼ばれる白鳥座から南十字星までを走る天空の列車なのでした。すでにここに暗示されているように、実はこの作品の背骨ともいえるのは、十字架だったのです。それは、列車の旅の途中で、まばゆいばかりに白く光る大きな十字架が登場し、乗客たちがそれに向かって「ハレルヤ」と言い、十字架に祈る、という場面があることからも伺い知ることができます。さらにいえば、この作品は、人間の本当の幸せとは何か、どうしたらみんなが幸いになるか、がテーマとなっており、ヨハネ福音書の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)が暗示的に、そのテーマに対応するものになっています。ちなみに主人公のジョバンニとは、英語ではジョンつまりヨハネですので、この辺りにもヨハネ福音書とのつながりをみることができます。 こうして話し始めると、この作品全体についてもっと語りたくなってしまいます。ですが、この限られた時間のなかでは無理ですし、そもそも、結末を言うわけにも行きません。ですので、今日は、イースターを迎えるにあたって、一番印象に残ったところを取りあげたいと思います。 それは、銀河鉄道に後から乗ってきた女の子が、ジョバンニとその親友カムパネルラに話すサソリのお話しです。ジョバンニたちが、さそり座のサソリの目にあたる星、赤く光り、燃えているサソリの火について話していたときのことです。女の子は、その火が、サソリが焼けて死んで、いまでも燃えていると、お父さんから聞いたことを彼らに教えてくれます。 するとカムパネルラは言いました。 「サソリって虫だろう。」 「ええ、サソリは虫よ。だけどいい虫だわ。」 「サソリいい虫じゃないよ。ぼく博物館でアルコールにつけてあるの見た。(略)尾にこんなかぎがあってそれで刺されると死ぬって先生が云ったよ。」 「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんがこう云ったのよ。」 と言って、女の子はサソリの物語を話しはじめました。それは、ある野原にサソリがいて、小さな虫やなにかを殺して食べて生きていました。ところがある日イタチに見つかってサソリは食べられそうになります。そして必死に逃げたのですが、井戸の中に落ちてしまいます。そして、どうしてもあがることができず、サソリは溺れはじめます。そのときサソリは、こうお祈りしたと言います。 「ああ、私はいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうして私は私のからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい―。」 そして女の子は最後に言います。 「そしたらいつかサソリはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」 ここで私は、このお祈りを祈ったのが、他ならぬサソリであった、というところにも大きな意味を見出さざるをえません。多くのものを傷つけ、命を奪い、みんなから忌み嫌われるサソリが、最期にはこのように祈った―。ここに、先週の福音書で出てきた、イエスさまの隣の十字架に架かっていた罪人と同質の姿をみるのです。多くの罪、あるいは、大きな罪を犯したであろうこの罪人が、最期には、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(22:42)、そう語ります。 この祈りと、サソリの祈りは、いつか同じ響きをもって私たちを揺さぶり、私たちの祈りを感化する力をもっているのではないでしょうか。もちろん、私たちには、「この次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい」とまでは祈ることができないのかもしれません。しかし、サソリのむなしさ、そしてあの罪人がもっていたであろうむなしさは、私たちの、むなしさや悲しみ、失望をつらぬくのではないでしょうか。 そして、サソリと罪人と、私たちの祈りを、神さまは確かに聞き、応えてくださるのではないでしょうか。その応えが、今日の福音書に出てくる、輝く衣を着た二人のひとの言葉に示されています。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(24:7)。 十字架で流されたイエスさまの血、それは、サソリの火のように真っ赤にうつくしく燃え、私たちの罪を燃やし、復活という出来事により決定的に、私たちの心を燃やし続けているのではないでしょうか。 イエスさまのご復活にあずかることによって、私たちには新たないのち、心に燃え、私たちの闇と、世の闇とを照らす火が与えられていることをおぼえ、心から復活日をお祝いしたいのです。イースターおめでとうございます!! Read More

2025年4月13日 復活前主日(C年)

司祭 サムエル 小林宏治 ルカによる福音書第23章1節から49節 「ピラトから尋問される」「ヘロデから尋問される」「死刑の判決を受ける」 「十字架につけられる」「イエスの死」 「十字架上での出来事」 あるとき、ユダヤの指導者たちによって、捕らえられ、ローマの総督であるピラトのもとに連れて行かれました。そこでの尋問の後、十字架刑が確定しました。 イエス様は「されこうべ」と呼ばれるところに連れていかれました。そこでイエス様は十字架につけられました。二人の犯罪人も一緒に十字架につけられました。このあと、イエス様は死を迎えられました。人々の罪を背負って、その死を迎えられました。 今回は、その死の前に一人の人が救われたことを覚えたいと思います。イエス様の両側に、一人は右に、一人は左に、二人の人が十字架につけられました。まわりの人々は、十字架上にいる、イエス様と両側の二人を見つめていました。人々はイエス様をののしり、「自分を救ってみろ」と叫びました。  そのような中、十字架にかけられた犯罪人の一人が、イエス様をののしりました。 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。すると、もう一人の方が、注意して言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。 すると、イエス様は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」イエス様は、一人の人の願いを聞かれ、次のように言われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」 イエス様はこの後息を引き取られます。けれども、その前に、イエス様の横にいた一人の人の回心が起こりました。十字架上で、一人の人が、イエス様に受け入れられ、神の国に導かれました。一人の人が救われました。この出来事はわたしたちに希望を与えます。 多くの人にとって、イエス様には、十字架の死がふさわしいと思っていました。また、イエス様の近くにいた弟子たちは逃げ去りました。そのような中で、イエス様は一人の人を救われました。 イエス様の死に無関係な人はいません。イエス様はわたしたちの罪のために死なれました。その苦しみのただ中でさえ、イエス様は一人の人を救いに導かれました。苦しみ悶えながらも、人を救おうとする神様の愛をここに見ます。この神様の愛をわたしたちは大切にしたいと思います。 Read More