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今週のメッセージ

2025年8月17日 聖霊降臨後第10主日(C年) 目の前にイエス様が。【ルカ12:49‐56】

司祭 ミカエル 藤原健久  「あなた方は、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」これは私たちにとって、受け入れがたい言葉です。イエス様は真の救い主で、人々を和解と一致に導き、平和をもたらしてくださいます。だからイエス様は、人々の争いを放っておかれません。分裂と争いの場に駆けつけてくださいます。だから、次のように言うことができるのかもしれません。「争いあるところに、イエス様がおられる。」そのことを伝えるために、冒頭のようなことを仰ったのかもしれません。  かつて歌手の三波春夫さんは、「お客様は神様です」と仰いました。これは、客に媚びを売る言葉ではなく、「目の前のお客さんを神様だと思って、神様の前で歌うつもりで、心を込めて歌う」という意味だそうです。私たちも、目の前にイエス様がおられると思って、心を込めて、奉仕活動をしたいと思います。  イエス様は苦しんでいる人を放っておかれません。苦しんでいる人の傍には十字架のイエス様がおられます。目の前にイエス様がおられると思って、苦しんでいる人を助けたいと思います。きっと目の前の復活にも出会うでしょう。 Read More

2025年8月10日 聖霊降臨後第9主日(C年) 会いに来られる

執事 サムエル 藤井和人  「会いたい」と想う経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。もし自分にとって大切な人、愛する人と、何らかの形で距離が離れてしまったとき、深い悲しみと寂しさを感じます。そこで初めて「わたしにとって、その人がどんなに尊く、大切な存在であったのか」ということに気づかされるのだと思います。いつか、またその人に「会いたい。」そのような想いで、その人との再会を待ちわびます。 ところで、日々の生活の中で、うまくいかないとき、孤独の内に落ち込んでいるとき、そのようなときに励ましてくれる人、一番に会いたい人がいるとすれば、それは一体誰なのかと、自分に問いかけることがあります。そして、そのたびに「イエスさま」と声に出します。 ふとしたときに、イエスさまが、そのような「わたし」のところに会いに来てくださったとしたら、どんなにうれしいことでしょうか。何と声をかけましょうか。何と声をかけてくださるのでしょうか。 聖歌517番を見てみますと、次のような詞で始まります。 「主が来られたから 主がわたしのもとへ 主がともに歩む この道を行こう」  今日のルカ福音書では、主人が婚宴から帰って来たとき、すぐに戸を開けようと待っている人のように、「目を覚ましていなさい」ということが言われております。  「目を覚ましている」とは、つまり「会いたい」という気持ちを絶やさず、イエスさまが私たちのところに会いに来てくださるのを待ち望むことです。  私たちは、そのようにイエスさまを待ち望みつつ、けれどもイエスさまは、すでに私たちのところに会いに来てくださっている。そのところが礼拝です。毎主日の礼拝の中で、すでに私たちのところに会いに来てくださっているイエスさまに向かって、私たちは、今想っている祈りと願い、悔い改め、感謝をささげます。 そのように私たちは、毎主日の礼拝を通して慰めと力が与えられ、この一週間も、神と人とに仕える者として、この世へと派遣されていきます。 Read More

2025年8月3日 聖霊降臨後第8主日(C年)

司祭 アントニオ 出口崇 『自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』ルカ12:21 以前に人生の先輩から免罪符についての話を聞いたことがあります。 中世のローマカトリックの腐敗の象徴の一つとして、罪を赦されて天国に入ることが出来る免罪符を教会が売り出した、その反発からプロテスタント教会が出来あがる宗教改革が起きていきます。この免罪符、よくできているなあという不謹慎な話でした。ほかの宗教が売っているお守り、お札、高価なツボは、現世、今生きている苦しみが癒される、ご利益があることを謳っていますが、ご利益がない場合すぐに文句を言われる。 しかし免罪符は来世でのご利益なのでインチキでも文句は言われない、返品や訴訟にはならない。そんなくだらない話でしたが、中世の一部の人々ではなく、今なお私たちが持ち続けている「自分の人生も命も自分だけのも、自分の努力の賜物」という愚かさを改めて考えさせられました。 『自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』 しかし、そんな豊かになれない私たちのために、沢山の冨、お恵みを私たちに与え続けてくださっている方がおられます。私たちが自分自身の努力だけでは神の前に立てない存在であることを知っておられ、ご自分の冨、命、豊かさ、持てるものを全て、何も無くなるまで分け与えてくださり、十字架に架けられました。 Read More

2025年7月27日 聖霊降臨後第7主日(C年) その願い、神は叶えません

司祭 マタイ 出口 創 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。【ルカによる福音書11章13節】 小さい子どもの頃、母が買い物に行くときに、よくスーパーに連れられていたと思います。そして大体、欲しいと思ったお菓子を買ってもらいたくて、駄々をこねたり、黙って買い物かごの中に勝手に入れたりしていました。子どもながらに、欲しい物を何とかゲットしたくって、工夫をしていた記憶があります。でもほとんどの場合、それは叶いませんでした。若い頃の母は厳しくて、子どもが欲しがっているお菓子くらいには、その願いを叶えてくれませんでした。でも両親が私に対して、必要だと判断した物は、惜しみなく与えてくれていたと思います。 今では私が大人になって、自分でスーパーに買い物に行きますが、つい欲しいと感じた瞬間に、その商品を買い物かごに入れてしまって、無駄遣いをしているような気もします。人の願いというものは、もしかしたら、必ずしも叶わなくても良いのかもしれないと、ふと考えてしまいます。 日本をはじめとして、古代からの人間の宗教心は、多分、願望を叶えてくれる方に願うというスタイルが原初だったのではないかと思います。その点だけをとったとしても、キリスト教は、日本の宗教心とは合わないかと思います。それが、日本人にキリスト教があまり受け入れられない理由の一つかもしれません。だってキリスト教の神は、人間の願望を叶えるのではなく、もっと良い物、即ち聖霊を与えると、上述の箇所でイエスさまは教えるのですから。 選挙などの戦勝祈願、合格、健康、安産、家内安全、交通安全、商売繁盛、世界平和、更には、世界征服や君臣豊楽に国家安康?? 人間の願望は多岐にわたって、また際限を知りません。キリスト教の神は、そのような個別の願望を叶える神ではありません。全時代、全人類、全世界に共通する、「良い物」を与える神です。ここでは即ち「聖霊」だと、イエス・キリストは教えます。 「だったら、聖霊なんて要らない、欲しくない」「だったら、キリスト教の信者にならない」「今欲しい物が欲しいんだ!」という人が、いらっしゃるかもしれません。でも今日のところは一旦、全時代、全人類、全世界に共通する「良い物」とは何だろうかと、少し思いを巡らしてみませんか? キリスト教の神は、小さい子どもたちが欲しがるお菓子を与える神ではありません。また世界征服や独裁願望など、そんな願い、神は叶えません。全時代、全人類、全世界に共通する、「もっと良い」と神ご自身が判断なさっているものを、与えてくださっているのです。それが「神の国」「永遠の命」、そして「聖霊」と呼ばれるものでもあるのです。 キリスト教の神は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」(エフェソの信徒への手紙3章20節)なのです。そしてその中には、あなたすら気付いていないかもしれない「あなた自身の本当の幸せ」も、含まれているはずなのです。 Read More

2025年7月20日 聖霊降臨後第6主日(C年) 聴くというおもてなし

司祭 ヨハネ 荒木太一 「マルタ、マルタ、必要なことはただ一つだけだ」ルカ10:41 「働き者のお姉さんが叱られて、なんでボーッとしてる妹が誉められるのか」と言う声が聞こえてきそうです。 ですがイエスさまは、おもてなしを軽視しているのではありません。その多忙さゆえに「思い悩み、心を乱し」妹に不満を募らせているマルタを愛情込めて戒めているのです。「マルタ、マルタ」と。マルタは、足を洗う用意や、ぶどう酒や、料理のことでマルタは頭がいっぱいで、ゲスト本人の存在は二の次になっていました。だから「必要なことはただ一つだけだ」と。 その唯一必要なおもてなしとは、ゲストの心と言葉を聴くことです。今、ベタニアの自宅に迎え入れた目の前のこのお方は神の子。このお方はエルサレムでの十字架へと進むにあたって愛の言葉を語られている。このお方の望みは洗足でも料理でも酒でもない。自分の言葉を、神の言葉を聞くことなのです。 教会も同じ。私たちは様々な奉仕でイエスさまをお迎えします。しかし時には摩擦や無力感に合い「思い悩み、心を乱します。」しかし最も大切なおもてなしは、ゲストの言葉を聞くことです。全ての奉仕はそのためにあります。 礼拝では、聴くことで主をもてなしましょう。聖書と説教を通した、主の言葉を。聖別祷とご聖体で自らを現す主の存在を。聴きましょう。「あなたのために与えられた主イエスキリストの体。」 魂の家も同じ。イエスさまを魂にお迎えするために「悩む思い、乱す心」を全て捨てて今、目の前におられるゲストの言葉を聴きましょう。その時々の、主の言葉を必死に聞き取りましょう。 そうすれば主は喜ばれます。「よく聴いてくれた。ここに来てよかった。」 Read More

2025年7月13日 聖霊降臨後第5主日(C年)

司祭 ルカ 柳原健之 今週の福音書は、キリスト教の核となる教えである「隣人愛」が主題です。 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みて言いました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」これは一見熱心な質問に見えますが、その後に「イエスを試みるためだった」と記されています。つまり、彼は真理を求めてではなく、自分の正しさを確かめるための質問だったのです。そしてさらにこう問い返します。「では、私の隣人とは誰ですか?」これは、自分が愛すべき範囲を限定したいという心から出た質問です。「どこまで愛せば十分ですか?」というわけです。 イエスは、直接答える代わりに一つの物語を語られました。ある人が強盗に襲われ、半殺しの状態にされて道端に倒れていました。そこへ祭司と神殿で祭司の補助者であるレビ人が通りかかりますが、彼らは「見て見ぬふり」をして通り過ぎていきました。 一方、ユダヤ人から忌み嫌われていたサマリア人は倒れている彼を見て「かわいそうに思い」、手を差し伸べます。彼は傷の手当をし、ろばに乗せ、宿屋に運び、世話をし、さらに宿屋の主人にお金を渡して「これ以上かかったら、帰りに払う」とまで言います。 この「かわいそうに思った」という一言に、隣人愛の本質があります。彼は義務感ではなく、「憐れみの心」から行動したのでした。 イエスは律法学者にこう尋ねます。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか?彼は「その人を助けた人です」と答え、イエスは「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われました。 イエスは、「誰があなたの隣人か?」とは聞かず、「あなたは誰の隣人になれるか?」と聞かれています。「隣人」とは「関係性」ではなく、「行動によってなるもの」であることを示されています。 この例えを通して、私たちは次のことが問われています。傷つき倒れている人を見て、通り過ぎる側の人間になっていないか?自分の都合や宗教的ルールを優先して、人の痛みを無視していないか?自分と異なる背景や信仰、立場の人をも「隣人」として愛せているか?心に突き刺さることばかりです。イエスが求められているのは、言葉ではなく「行動」です。愛とは、境界線を越える力です。サマリア人は忌み嫌っている相手であっても、その境界線を乗り越え、愛を実践しました。サマリア人のように、私たちも「愛する者になる」ことが、永遠の命に向かう道なのです。 イエスは私たちにとって「良きサマリア人」となってくださいました。私たちが罪の中で倒れていたとき、見捨てるのではなく、近づき、癒し、代価を払ってまで救ってくださったのです。イエスの愛を受けた者として、今度は「隣人になる者」として、この世に出て行きたいと思います。 Read More

2025年7月6日 聖霊降臨後第4主日(C年) 「主によらなければ」

執事 ダビデ 梁 權模 時折、「自分は何でもできる」と思うときがあります。それは、「これは難しい」と思われていたことを「自分で」解決できたときです。例えば、難しい数学問題が解けたときや、難易度の高いクロスワードパズルをクリアできたときがそうです。更には、そう簡単に承諾してくれない相手から良い返事を得られるように、「自分で」努力して成果を上げたときもありますし、自分を苦労させた課題を「自分の力で」解決できたときは、これ以上ない嬉しさがあります。 「自分の力で」解決できたときに、私たちは「自分の中にはこんな力があるんだ」と思い「自分は何でもできる」と思ったりします。逆に、「自分の力で解決できない」ときは、「自分は何の力も持っていない」と嘆きます。 興味深いのは、人々が「自分でできた」と思うのは「自らの手で」解決したときであって、自分の手ではなく「他人の手を借りて」解決したときは、そのように思っていないということです。「人の手を借りる」という表現の範囲はかなり広いのですが、私が思うには他人の能力―物質的、身体的、または思考力などの、自分が持っていない力を借りたときがそれであるように思っています。 今回の福音書は、自分の力ではなく「他人の力を」借りて解決していることが記されています。イエス様が72人の弟子たちにご自分の権威を分け与えて、それぞれをご自分が行こうとする町や村に派遣されます。弟子たちは帰ってきて、それぞれの働きを報告しながら「あなたのお名前を使うことで悪魔を屈服させることができました」と言います。 注目すべきことは、イエス様のもとに帰って来た彼らは「私たちの力で、あなたから任された務めを果たすことができました」とは言っていないことです。イエス様より任せられた務めを、イエス様の権威、そしてその力で、遣わされたところで働くことができたと彼らはイエス様に報告しています。つまり、弟子たちは「自分たちの力で」町の病人を癒し、神の国が近づくという福音を宣べ伝えたのではなく、「イエス様によって」行えたことを告白しているのです。 言い換えれば、弟子たちはイエス様から任された「良い知らせを宣べ伝える」という務めを「自分たちの力でできなかった」と嘆くのではなく、「主によって」これらのすべてができたと喜んでいるのです。 私たちは今、聖霊降臨後の時期を過ごしています。この時期はイエス様を通して与えられた聖霊によってイエス様の弟子である使徒たちが教会をつくり、教会が宣教の務めを担ってきたことを教えています。 教会の世に対する働きは決して、私たち一人ひとりの「自分の力」によってできたというより、聖霊を通して私たちとともにおられるイエス様によってその働きができるのです。 今まで私たちとともにおられ、ともに働いてくださったイエス様により頼み、これからもともに歩み続けることを願い祈りましょう。 Read More

2025年6月29日 聖霊降臨後第3主日(C年)

司祭 エッサイ 矢萩新一 今日の福音書(ルカによる福音書第9章51-62節)は、「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。」という言葉で書き始められています。「天に上げられる日」とは間近に迫る十字架の死と復活と昇天へと向かう道のりという意味ですので、神さまのみ心を直視されたイエスさまの覚悟が伝わってきます。イエスさまはご自分の使命を悟られ、神さまのご計画を実現させる為にエルサレムへと向う決意されました。「決意する」という言葉のギリシャ語には「顔をしっかりと向ける」とニュアンスが込められています。この顔を向けるという表現は、ただ単にそちらを見るとか、関心を向けるというレベルのことではなく、相手に向かって本気になって真正面から向き合うという強い決意を表わしたそうです。またヘブライ語で「顔」という言葉は、その人の人格や心、思いが外に現れていくという動的な意味を伴うそうです。「十字架の死と復活・昇天を直視して、エルサレムにしっかりと顔を向けられた」ということです。 私たちも、誰かが何かに本気で真正面から取り組んでいる姿を見て、「あの人はいい顔してるね」と表現したりしますので、おそらく、エルサレムへと向かうイエスさまの顔も「いい顔」をされていたのだろうと想像します。しかし、その表面的な顔だけを見ていてはいけません。十字架をしっかりと見つめ、そこに自分の歩むべき道を見出されたイエスさまの、もっと奥にある「顔」に目を向けたいのです。それは、神さまの理不尽とも思える不思議なみ業へと向けられた顔です。私たちの救いと希望を約束される神さまへと向けられた顔、救いを求めて必死に叫び声を上げる小さくされた人々へと向けられた真剣な眼差しです。神さまと人々に対するイエスさまの思いは、たとえその道が厳しくても苦しくても、途中で揺らいでしまうような中途半端なものではありませんでした。ご自分にふりかかる様々な困難に立ち向かわれイエスさまのまっすぐな生き様は、弟子たちはなかなか理解することができませんでした。それは、自分たちに逆らう者を「天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」とヤコブとヨハネがイエスさまに進言していることからもわかります。イエスさまを十字架へと導くものは、外からの力ではなくて、心の内側から湧き出す慈しみの心・愛なのです。 イエスさまがユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人の村に入ろうとされたのは、あまねく人々に神さまの愛が伝えられるためでした。しかし残念ながら、サマリアの人々には受け入れられませんでしたが、イエスさまは決して争おうとはされず、他の村へと向われます。そして、その道中、3人の人がイエスさまに従う意思を表明します。最初の人は、無条件に「どこへでも従ってまいります」と申し出ました。イエスさまは、人間としてのご自身の姿を伝えようと「人の子には枕する所もない」と、安らげる場所がないほどの険しい道であることを告げられます。2番目の人は、父の葬りが済んだら従おうと考えました。当時、死者の埋葬はすべてに優先される宗教的な義務とされていましたが、イエスさまは、それは死者たちがすればよい、「あなたは神の国を告げ知らせなさい」と言われます。イエスさまの言われる死者とは、神の国の到来に気付かないでいる人々のことを指し、神さまの支配を目の当たりにした人は、何よりも神の国をのべ伝えることを優先すべきだと言われるのです。イエスさまが体現される神さまの支配とは、肉体的な死をも克服し、本当に人を生かす力を持った支配です。3番目の人は、家族に別れを告げることを願います。それは人間として当然な礼儀でしょうし、しばらく会えない家族に挨拶をしたいというささやかな願いでした。しかし、イエスさまはそれさえも許されません。条件の大小が問題なのはではなくて、イエスさまに従おうとする決意に満ちた顔をしているかどうかということです。畑を耕す鋤は、よそ見をしながら振り下ろしていると、うねが曲がってしまいます。右往左往する弟子たちの生き方は、イエスさまから見れば、まだまだ物足りものでした。神さまと人々に対する真摯な愛に突き動かされない限り、イエスさまと共に十字架の道を歩むことができないという今日の福音書のメッセージで、後ろを顧みずに、いつも神さまに顔を向けて歩むことが求められています。 現実的な私たちの顔は、どうしても過去の栄光や、人から顧みられることに向けられがちですが、私たちの顔に本当のかがやきを与えてくれるのは、過去の業績や人からの評価ではなく、私たちをこよなく愛してくださる、慈しみの神さまの愛です。たくさんの苦労を背負いながらも、神さまのみ業のために生き抜かれた先人達の顔はどれも輝いていたはずです。言葉としては訳されてはいませんが、今日の短い福音書の個所の中で、実は3回も「顔」という言葉が使われています。それは神さまのご計画に忠実に向おうとする顔を意味します。私たちのキリスト者の使命は、顔をあげ、上を向いて歩くことではないでしょうか。ずっと上を向き続けて歩いていると、石ころにけつまずいたり、段差に足を引っ掛けたりすることがあるかも知れませんが、たとえ大きな落とし穴に落ちそうになった時でも、聖霊の働きによって、私たちが危険に合わないように、必ず神さまは導いてくださいます。私たちはこの神さまの大きな愛の力に信頼して、自分の十字架を見つめ、上を向いて歩むことによって、素敵な信仰生活が送れるのではないでしょうか。 Read More

2025年6月22日 聖霊降臨後第2主日(C年)「ともに歩む旅」ルカ9:18-24

司祭 鈴木恵一 聖霊降臨後の期節が始まりました。今年はルカによる福音書が朗読されます。ルカによる福音書は「旅人」イエスを描き、誕生から死と復活・昇天までを「赦し・解放」を告げる旅として伝えています。私たちも福音書を聞くことを通してイエスさまの旅を共に歩みましょう。 今週は沖縄慰霊の日(6/23)を控え、日本聖公会は沖縄週間を記念します。沖縄の苦難の歴史と記憶を継承し、現在の沖縄に思いを寄せ、主の平和を祈ります。今年はアジア・太平洋戦争終結80年。平和を求める祈りを重ね、世界の争いや悲しみにも心を寄せます。沖縄週間では現地を訪れ、課題を知り祈る旅が行われています。 今日の福音書には、祈るイエスさまの姿が描かれます。イエスさまはガリラヤからエルサレムへの旅で多くの人々と出会い、苦しみに寄り添いながらも、ひとり祈る時間を大切にされました。祈りの中で神さまの使命を確かめ、次の歩みを進めていかれたのです。そして「ペテロの信仰告白」と「イエスさまの受難予告」の出来事が記されています。イエスさまはガリラヤで宣教を始め、多くの人々が奇跡や言葉に期待し従いました。ガリラヤ湖畔で五千人にパンと魚を分け与える奇跡も起こりました。その後、イエスさまは弟子たちと山に退き祈ります。そこで「群衆は私を何者と言うか」と問われ、ペテロは「神からのメシアです」と答えます。メシアとは「油注がれた者」、救世主や王を意味し、当時の人々はローマ支配からの解放者を期待していました。しかしイエスさまは、ペテロの告白を誰にも言わないよう厳しく戒めます。弟子たちや群衆の期待は「新しい王」でしたが、イエスさまは「人の子は多くの苦しみを受け、排斥され殺され、三日目に復活する」と受難を予告します。弟子たちは大きな衝撃を受けたことでしょう。イエスさまは、世俗的な王ではなく、苦しみを受けるメシアであることを明言されました。 さらに「私について来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従いなさい」と語ります。十字架を負うとは、単なる苦難の受容ではなく、神さまの御心に従順に歩むことです。イエスさま自身が父なる神に死に至るまで従順であったように、私たちも自分の思いや欲望を捨て、神の御心に従うことが「自分の十字架を負う」ことです。イエスさまの十字架は、すべての人の罪を担う赦しの出来事でした。十字架は本来、処刑の道具でしたが、今やキリスト教のシンボルとなっています。イエスさまは苦しみの中、十字架を背負い、最後はクレネのシモンが代わりに背負いました。この姿は、イエスさまに従うことと十字架を負うことが一体であることを示しています。 人生は重荷を背負う旅のようです。苦しみや悲しみの十字架を感じることもありますが、イエスさまは「重荷を負う者は私のもとに来なさい」と招かれます。イエスさまと共に歩むことは、イエスさまが私たちの十字架も共に背負ってくださる旅でもあるのです。 イエスさまの十字架と復活に感謝し、共に担い、共に歩む日々を大切にしましょう。 Read More

2025年6月15日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(C年)ヨハネによる福音書16: (5-11) 12-15

司祭 マーク・シュタール 三位一体主日は、父と子と聖霊の三つが合わさったことを覚える日ですが、この特別な主日は毎年、聖霊降臨日の次の日曜日に巡ってきます(今年は6月15日です)。私は先週、香蘭の生徒たちにも説明しましたが、この機会に京都教区の皆様にも三位一体主日の話をしたいと思います。 私は数年前、18世紀に南インドで宣教した人の日記を読みました。彼はケララ(Kerala)と言う所で宣教していましたが、突然ケララ人たちが「三位一体、どうして三つの物が一つになり得るのか?」と理解できずにいたので、宣教師は困り果てた末、小さな器と水の入った水差しを取り出しました。そして、水差しから3滴水を器に落としました。1滴ずつ、「これが父、これが子、これが聖霊」それから器を揺らすと、当然ながら3滴の水は合わさって1つになりました。「ほら!3つあった物が1つになったでしょう!もう、ばらばらにはならないでしょう」。ケララの村人たちは納得して、三位一体の意味する所を理解し、その後この宣教師は大成功を収めたのです。 クリスマス、復活日、聖霊降臨日、キリスト教の主要なお祭りは神様が行った出来事を祝していますが、三位一体主日は神様が定められたことではなく、人間が作ったものです。この主日を始めたのは、カンタベリー大司教のトマス・ベケット(Thomas Becket)です。彼は1162年の聖霊降臨日の次の日曜日に大司教に着座しました。そして、それを記念するためにこの特別な記念日を設けたのです。彼は8年後の1170年にヘンリー2世の家来によって殺されてしまいましたが、父と子と聖霊の三位一体を祝う習慣はすぐにキリスト教の間に広がっていきました。 さて、この特別な主日が巡って来たということはキリスト教のカレンダーでは、幾つかの大きなイベントが終わったことを意味します。同時にキリスト教の学校として私たちの使命、仕事が始まるということでもあります。つまり、神様がなさるべきことは終わり、イエス様が伝えるべきことが伝えられ、使徒や弟子たちの務めが成し遂げられ、ついに私たち一人一人が使命を果たすときが来たのです。 今年(C年)の三位一体の主日の福音朗読は、ヨハネによる福音書16章5~15節です。この中で、イエスは弟子たちに、彼らがこれから歩む困難な人生を覚悟させています。弟子として、彼らは多くの試練と苦難に直面するでしょう。しかし、彼らは信仰を守らなければならないのです。そのためには支えが必要です。その支えは聖霊によって与えられます。イエスは、この聖霊が行動の基準を明らかにし、何が正しくて何が間違っているかを明らかにし、彼らを教育し続けると述べています。特に、イエスが言い残したことが聖霊によって明らかにされます。漸進的な啓示が続きます。キリストにおいてすでに示されている真理は、決して変わることはないです。 しかし、この聖霊によって、弟子たち一人ひとりをさらに明確にすることができるのです。 弟子たちに対するこの準備は、私たちも耳を傾けることができます。 私たちもまた、神の言葉を聞き、私たちに対する神の大いなる愛を体験してきました。また、私たちを救うために遣わされたイエスの鋭い啓示を、その模範によって感じてきました。私たちはまた、これから何が起こるのだろうかと思い悩み、ただ聖霊の介入と真理の啓示を受けてきました。 この朗読を読むと、ケララの宣教師と、彼がいかに聖霊の霊感を受けたかを思い出します。「これが父、これが子、これが聖霊」それから器を揺らすと、当然ながら3滴の水は合わせて1つになりました。「ほら!3つあった物が1つになったでしょう!もう、ばらばらにならないでしょう」 Read More