司祭 エッサイ 矢萩新一 今日の福音書(ルカによる福音書第9章51-62節)は、「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。」という言葉で書き始められています。「天に上げられる日」とは間近に迫る十字架の死と復活と昇天へと向かう道のりという意味ですので、神さまのみ心を直視されたイエスさまの覚悟が伝わってきます。イエスさまはご自分の使命を悟られ、神さまのご計画を実現させる為にエルサレムへと向う決意されました。「決意する」という言葉のギリシャ語には「顔をしっかりと向ける」とニュアンスが込められています。この顔を向けるという表現は、ただ単にそちらを見るとか、関心を向けるというレベルのことではなく、相手に向かって本気になって真正面から向き合うという強い決意を表わしたそうです。またヘブライ語で「顔」という言葉は、その人の人格や心、思いが外に現れていくという動的な意味を伴うそうです。「十字架の死と復活・昇天を直視して、エルサレムにしっかりと顔を向けられた」ということです。 私たちも、誰かが何かに本気で真正面から取り組んでいる姿を見て、「あの人はいい顔してるね」と表現したりしますので、おそらく、エルサレムへと向かうイエスさまの顔も「いい顔」をされていたのだろうと想像します。しかし、その表面的な顔だけを見ていてはいけません。十字架をしっかりと見つめ、そこに自分の歩むべき道を見出されたイエスさまの、もっと奥にある「顔」に目を向けたいのです。それは、神さまの理不尽とも思える不思議なみ業へと向けられた顔です。私たちの救いと希望を約束される神さまへと向けられた顔、救いを求めて必死に叫び声を上げる小さくされた人々へと向けられた真剣な眼差しです。神さまと人々に対するイエスさまの思いは、たとえその道が厳しくても苦しくても、途中で揺らいでしまうような中途半端なものではありませんでした。ご自分にふりかかる様々な困難に立ち向かわれイエスさまのまっすぐな生き様は、弟子たちはなかなか理解することができませんでした。それは、自分たちに逆らう者を「天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」とヤコブとヨハネがイエスさまに進言していることからもわかります。イエスさまを十字架へと導くものは、外からの力ではなくて、心の内側から湧き出す慈しみの心・愛なのです。 イエスさまがユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人の村に入ろうとされたのは、あまねく人々に神さまの愛が伝えられるためでした。しかし残念ながら、サマリアの人々には受け入れられませんでしたが、イエスさまは決して争おうとはされず、他の村へと向われます。そして、その道中、3人の人がイエスさまに従う意思を表明します。最初の人は、無条件に「どこへでも従ってまいります」と申し出ました。イエスさまは、人間としてのご自身の姿を伝えようと「人の子には枕する所もない」と、安らげる場所がないほどの険しい道であることを告げられます。2番目の人は、父の葬りが済んだら従おうと考えました。当時、死者の埋葬はすべてに優先される宗教的な義務とされていましたが、イエスさまは、それは死者たちがすればよい、「あなたは神の国を告げ知らせなさい」と言われます。イエスさまの言われる死者とは、神の国の到来に気付かないでいる人々のことを指し、神さまの支配を目の当たりにした人は、何よりも神の国をのべ伝えることを優先すべきだと言われるのです。イエスさまが体現される神さまの支配とは、肉体的な死をも克服し、本当に人を生かす力を持った支配です。3番目の人は、家族に別れを告げることを願います。それは人間として当然な礼儀でしょうし、しばらく会えない家族に挨拶をしたいというささやかな願いでした。しかし、イエスさまはそれさえも許されません。条件の大小が問題なのはではなくて、イエスさまに従おうとする決意に満ちた顔をしているかどうかということです。畑を耕す鋤は、よそ見をしながら振り下ろしていると、うねが曲がってしまいます。右往左往する弟子たちの生き方は、イエスさまから見れば、まだまだ物足りものでした。神さまと人々に対する真摯な愛に突き動かされない限り、イエスさまと共に十字架の道を歩むことができないという今日の福音書のメッセージで、後ろを顧みずに、いつも神さまに顔を向けて歩むことが求められています。 現実的な私たちの顔は、どうしても過去の栄光や、人から顧みられることに向けられがちですが、私たちの顔に本当のかがやきを与えてくれるのは、過去の業績や人からの評価ではなく、私たちをこよなく愛してくださる、慈しみの神さまの愛です。たくさんの苦労を背負いながらも、神さまのみ業のために生き抜かれた先人達の顔はどれも輝いていたはずです。言葉としては訳されてはいませんが、今日の短い福音書の個所の中で、実は3回も「顔」という言葉が使われています。それは神さまのご計画に忠実に向おうとする顔を意味します。私たちのキリスト者の使命は、顔をあげ、上を向いて歩くことではないでしょうか。ずっと上を向き続けて歩いていると、石ころにけつまずいたり、段差に足を引っ掛けたりすることがあるかも知れませんが、たとえ大きな落とし穴に落ちそうになった時でも、聖霊の働きによって、私たちが危険に合わないように、必ず神さまは導いてくださいます。私たちはこの神さまの大きな愛の力に信頼して、自分の十字架を見つめ、上を向いて歩むことによって、素敵な信仰生活が送れるのではないでしょうか。
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