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今週のメッセージ

2025年11月2日 聖霊降臨後第21主日(C年) 「今日、救いがこの家を訪れた」

司祭 セシリア 大岡左代子 聖霊降臨後の期節も終わりに近づいてきました。今日の主日に与えられている福音書は徴税人ザアカイの物語です。ルカによる福音書のみに記されているこの物語は、多くの方にとって印象に残る物語なのではないでしょうか。 徴税人の頭であり、金持ちであったザアカイ。この名前には「義人」「清い」という意味があるようですが、最初ザアカイは「義しく清い」人ではなかったことが後半の告白でわかります。不正をしていたザアカイは町の人には嫌われていたでしょう。それでも、金持ちであること、徴税人の頭として権力をふるうことができたザアカイは、嫌われても気にせず、自分の為すべきことを為して、自分は大丈夫だ、と言い聞かせていたのではないかと思います。イエスが自分の町に来られた時、イエスを見ようとしたけれど、背が低かったため、群衆に遮られて見ることができませんでした。群衆はザアカイの存在に気が付いていなかったのか、ザアカイは木の上に昇らなければイエスを見ることはできませんでした。 そんなザアカイにイエスが声をかけられます。ザアカイはどんなに驚き、また喜んだことでしょう。町の嫌われ者で、日ごろは誰も声をかけないだろう自分に声をかけてくれる人がいる、しかもそれはイエス様!「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われてザアカイは、喜んでイエスを迎えたのでした。イエスがなぜザアカイの名前をご存知だったのかわかりません。嫌われ者ゆえ、名前を呼ばれることなど久しくなかったかもしれません。私たちも経験があると思いますが「名前を呼ばれること」はその人の存在を認められることでもあります。名前を呼ばれるだけでも嬉しいうえに、自分の家に泊られる、ザアカイにとって望外の喜びであったのです。このことをきっかけにザアカイはこれまでの自分の不正な在り方、その生き方を180度転換しました。 ザアカイの家に泊ったイエスとザアカイとの間にどんな会話が交わされたのかな、と想像します。イエスと語り合ううちにザアカイの心が解けていったのではないか、と想像します。そこに神様の御業が示されました。「今日、救いがこの家に訪れた」この言葉には神様の御業が現れたことを伝える意味があります。ザアカイは神様にとって「失われたもの」でしたが、それは「見つかるまで捜し求められるもの」でもありました。ここでイエスに見出された喜びが、ザアカイを新しい生き方へと導いたのです。ここに神様の御業が現わされたのです。このあと、ザアカイはどんな歩みを続けたのか、と想像します。お金持ちではなくなったかもしれませんが、きっと満たされた日々を過ごしたのではないでしょうか。 Read More

2025年10月26日 聖霊降臨後第20主日(C年)

司祭 ダニエル 鈴木恵一 社会事業の大切さについて考えるとき、わたしたちはその根底にある「心のあり方」に目を向ける必要があります。社会事業は、単なる制度や仕組みではなく、そこに関わる一人ひとりの愛と謙遜な心によって成り立っています。キリスト教の精神に基づく社会事業は、困難や苦しみの中にある人々と共に歩み、支えるための愛の実践です。 ルカによる福音書18章に記された「ファリサイ派と徴税人のたとえ」は、わたしたちに奉仕の本質を教えてくれます。奉仕とは、自己満足や他者との比較ではなく、神さまの愛に応える謙虚な心から生まれるものです。徴税人のように、自分の弱さを認め、神さまのあわれみに感謝する心が、真の奉仕の原動力となります。 社会事業においても同じことが言えます。わたしたちが行う一つひとつの働きが、他者の評価や自己の誇りのためではなく、神さまの栄光と隣人への純粋な愛のためであるとき、それは真に意味のあるものとなります。制度や仕組みだけでは救いきれない人々がいるからこそ、わたしたちは愛と謙遜をもって新たな社会事業を生み出し、支えていく使命があります。 「自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くされる」というイエスさまの言葉は、わたしたちの奉仕の姿勢を問い直す重要なメッセージです。わたしたちの心が謙虚であり、神さまの愛に満たされているとき、その奉仕は神さまに喜ばれ、祝福されるものとなります。 社会事業の日にあたり、わたしたちは改めて、自分の心のあり方を見つめ直し、神さまの愛に応える奉仕を続けていきましょう。困難に直面する人々と共に歩む中で、わたしたち自身もまた、神さまの愛に支えられ、成長していきます。謙遜な心と愛をもって、社会事業を通じて神さまの愛を広げていきましょう。 Read More

2025年10月19日 聖霊降臨後第19主日(C年)「神様の思いやりを信じて祈り続ける」【ルカ18:1-8a】

司祭 サムエル 奥 晋一郎 イエスさまは、弟子たちに「やもめと裁判官のたとえ」を話されました。やもめとは夫と死別又は離別し、再婚していない女性、夫のない独身の女性のことです。当時のユダヤの国のやもめは夫が死亡してか、または夫に一方的に離縁されて一人になったのかはっきりとしませんが、女性一人で生活することは差別もされ、生活をしていくのに非常に厳しい状況でした。だからこそ、このやもめは、人を人とも思わない裁判官に熱心に願い、相手を裁いて私を守って欲しいと願いました。その結果、その裁判官は、これまでの考えを改めて、やもめのために裁判を行ないました。さらに、イエスさまは弟子たちに、裁判官とは違って、神様は常に人を思いやっておられることを伝え、気を落とさずに絶えず祈るようにと言われました。 このイエスさまが弟子たちに言われたことは、私たちにも言われています。私たちはどうでしょうか。日々生活していれば様々な感情があると思います。うれしいこと楽しいことばかりではなく、悲しいこと、他の人には分かってもらえないという不満も時にはあるかもしれません。また、弟子たちと同じように、私たちもイエスさまに従って、心を神様に向けて礼拝しつつも、祈りつつも、将来、本当に神様からの救いにあずかることができるのだろうかという不安を持って日々を過ごすこともあるかもれません。 しかし、そんな状況にあったとしても、イエスさまは弟子たちと同じようにわたしたちにも、本日の福音書に登場する、やもめが生きることが大変で、生きるのに苦しい状況にあったとしても、人を人とも思わない裁判官に熱心に願い、相手を裁いて私を守って欲しいと願うように、あきらめずに、絶えず神様に祈りなさいと言われます。さらに、神様は常に私たち一人ひとりを思いやって下さっていることをおられることをイエスさまは伝えています。このことを心に留めて、私たちはこれからも礼拝で共に祈り続けていきたいと思います。 Read More

2025年10月12日 聖霊降臨後第18主日(C年)

司祭 プリスカ 中尾貢三子 『バイブルアトラス』(日本聖書協会1999)には、聖書に出てくる地名とその当時の国名(地域名)だけでなく、地形図も描かれています。山岳地域や川沿いの低地が描き分けられ、山岳地域の色の濃淡によってその場所がなだらかなのか、険しいのかが伝わってきます。 イエスさまは9章51節で「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。ガリラヤ湖畔の町カファルナウム(海抜マイナス200メートル)を出発して、エルサレム(海抜750~830メートルの丘陵地帯)へ向かって移動をはじめられた、という文章が、実は起伏にとんだ地域をたどられたのだということが、地形図を通して読み取ることができます。 さて、今日の福音書(ルカによる福音書17章11~18節)では、イエスがエルサレムへ向かう途中、サマリアとガリラヤの間の村で、重い皮膚病を患う十人の人々と出会ったところから話が始まります。現代に比べて当時は、病気の発症や感染経路、治療に対する理解や知識が不十分でしたから、感染症の広がりを防ぐには「隔離」するしかありませんでした。そして旧約聖書に隔離が必要な病気かどうかの判断基準が記されているため、その診断をくだすのも祭司の役割の一つでした。そして診断名がつくと、感染拡大防止のため、家族や地元を離れて生活することになります。その結果、皮膚病の診断を受けた人々が寄り添い、助け合って生活していたことでしょう。そんな中、イエスさまの噂を聞きつけ、彼らはそろってイエスさまに会いに行き、病いの癒し、それが難しいならせめて憐れみを願います。 イエスは彼らに「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言われました。彼らはその途中で癒されました。しかし、癒された十人のうち、神を賛美し感謝のために戻ってきたのはただ一人。それもユダヤ人ではなく、サマリア人でした。イエスはその姿を見て、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」と問いかけ、感謝を表したその人に「あなたの信仰があなたを救った」と告げられました。  十人全員が癒されたのに、感謝を表したのは一人だけでした。神の恵みはすべての人に注がれますが、それにどう応えるかは私たちの心のあり方にかかっています。サマリア人は癒されたことを神の業として受け止め、賛美と感謝をもってイエスのもとに戻りました。その行動こそが、彼の信仰の証でした。サマリア人一人だけが戻ってきたということは、彼(彼女)にとって、願いが顧みられ、かなえられるというのが、「有難い」出来事だったからではないか、と想像するのです。ローマ人から支配を受けているのはユダヤ人もサマリア人も同じなのですが、彼らはユダヤ人からもさげすまれていました。自分の訴えを聞き届け、かなえてもらえたということが、他のユダヤ人以上に大きな喜びだったのではないでしょうか。願いが聞き届けられる恵みが「有難い」こと、と受け止めたサマリア人は、それをもたらした方=イエスさまにその喜びを伝えたい、と心躍りながら、戻ってきたことでしょう。この心の動きをイエスさまはご覧になりました。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、あふれる恵み=神さまの愛を感謝とともに受け止め生きることへと変えられたサマリア人への祝福の言葉でもありました。  翻って、私たちは日々の恵みがあたりまえだと思っていないでしょうか。神さまの愛が働いていることに気づいていますか?そしてそれを賛美と感謝の言葉と行いで表現しているでしょうか? わが身を振り返るきっかけとなりますように。 Read More

2025年10月5日 聖霊降臨後第17主日(C年)

司祭 ダニエル 鈴木恵一 「わたしたちの信仰を増してください。」イエスさまに使徒たちがそう願ったこの言葉は、わたしたち自身の心の叫びでもあります。日々の生活の中で困難に直面した時、あるいは大きな試練のただ中にいる時、「もっと強い信仰があれば乗り越えられるのに」と、願うことは少なくありません。そのような使徒たちの切なる思いに応え、イエスさまは一つのたとえを用いて教えられました。それは、からし種のたとえです。からし種は、わたしたちが普段目にするマスタードの粒でさえ十分小さいと感じるものです。でもイエスさまの時代に「からし種」と呼ばれていたものは、さらに驚くほど小さなものでした。まるで消しゴムの消しくずのように、風が吹けばどこかに飛んでいってしまうほどの微かな種です。肉眼でやっと確認できる程度の小さな種は、わたしたちには本当に小さな取るに足りないような存在に映ります。イエスさまは、このごくごく小さなからし種ほどの信仰であっても、「大きな桑の木を根こそぎ海に植え替えることができる」とおっしゃいました。これを聞いて「そんな小さな信仰で、まさか!」と、わたしたちは驚きを隠せません。そしてわたしたちは、このたとえを聞くと、さらに自分の信仰の小ささを嘆いてしまうのではないでしょうか。「ああ、自分にはこれほどの信仰はない。だから、この目の前の大きな困難を乗り越えられないのだ」と。自分の信仰の足りなさを痛感することもあるでしょう。弟子たちと同じように、「もっと強い信仰があったら」と願う気持ちは、わたしたちもよく経験することです。 でもここでよく考えてみたいと思います。イエスさまは、このたとえを通して、わたしたちに「あなたの信仰は小さすぎる」と戒めておられるのでしょうか?むしろ、イエスさまはわたしたちが「信仰」を量や大きさの問題として捉えてしまうことへの戒めとして、このたとえを語られたのではないでしょうか。弟子たちは「わたしたちの信仰を増してください」と願いました。彼らは信仰を、まるで貯金のように「量」で測れるもの、あるいは筋肉のように「鍛えて強くする」ものと捉えていたのでしょう。そんな弟子たちに対して、イエスさまはあえて、最も小さな種である「からし種」の話をされました。それは、「信仰とは、量や大きさの問題ではないのだ」ということを示しておられます。信仰の力とは、「信じることで、その人自身に不思議な力が備わる」というような力ではありません。わたしたちが心から信じ、そのすべてを神さまにゆだねたときに、神さまご自身が、その絶大な力をもって働いてくださるということです。そこではわたしたちの信仰が大きく見えるか、小さく見えるかは問題ではありません。大切なのは、その信仰の目が、全能の神さまへとしっかりと向けられているかどうか。そして、神さまに自分の人生、困難、願いのすべてをゆだねることができているかが問われています。わたしたちも、このイエスさまのたとえを通して、神さまへの信頼を置いた生活をしているかどうか、改めて問いかけられています。 Read More

2025年9月28日 聖霊降臨後第16主日(C年) 「苦難の中に希望を見出す力」【ルカによる福音書16:19-31】

司祭 アンデレ 松山健作 8月末から9月初旬にCCEA(東アジア聖公会教会協議会)で東南アジア聖公会サバ教区に訪れました。協議会では、各地域の宣教報告とともにミャンマー聖公会の状況に焦点が当てられていました。 開会礼拝で説教をされたスティーブン・タン首座主教さまは、次のようなことをおしゃっていました。「ミャンマーでは、内戦が続き、大地震、洪水があり、家や教会、学校、すべてを失ってしまった人々がいます。そのような状況の中で、嵐の中を航海する船乗りが灯台の光を頼りに進むように、私たちはイエス・キリストの光に目を留めるのです。」  主教さまは、苦難のある時こそ、困難がある時こそ、イエス・キリストから目を逸らさず、最も忠実である方に焦点を定めて歩まなければならないことを強調されました。そのように焦点定まる中で見えてくるのは、神さまとの約束であり、苦難の中における希望であるとおっしゃいます。  神という存在は、忠実な方であり、たとえ私たちがホームレスになったとしても、神さまは帰るべきホームを備えてくださっていると主教さまはおっしゃいます。それは、主イエス・キリストのご復活における希望が私たちに与えられる瞬間であるとおっしゃいます。 ルカによる福音書16章19節以下では、金持ちの家の門前で横たわるしかできなかった貧しいラザロが登場します。彼は空腹で金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと願うほどの苦しみと困難を味わい、誰にも助けられることなく亡くなります。 生のある間にラザロが希望を見出していたかは定かではありません。けれども、神はそのようなラザロを憐れみ、天の国において迎え慰められます。おそらく、ラザロが神に迎え入れられたのは、神からの憐れみを受けたのと同時に、彼自身も神から目を逸らさずに生きることによって慰めを受けた可能性があります。 一方、富を崇拝し、貧しい者に目をくれなかった金持ちは死後の世界において神の憐れみを受けることができず、炎の中で悶え苦しみます。ここには、神と富との関係の中で富を選び、貧しい者への配慮を欠いた人間の末路が描かれています。 本日の日課は、私たちが富との関係をどのように保つのか、どのように貧しい人への配慮をするのか、そして貧しくされた時に誰に・何に焦点を定めて希望を見出し生きるのかを教えているのではないでしょうか。私たちは、恵みを注いでくださる神さまから目を逸らさずに、他者への配慮をもって生き、共に助け祈り合いながら生きるキリストの弟子として、この世に派遣されたいと思います。 Read More

2025年9月21日 聖霊降臨後第15主日(C年) イエスと「不正な管理人」【ルカ16:1-13】

司祭 ヨハネ 黒田 裕 今日のたとえには、一人の管理人が出てきて、主人から借金をしている人々の債務を軽減するという場面があります。「借金」と出てくると、聖書ではしばしば罪とその赦しをあらわすたとえとして、債務とその帳消しということが使われます。「あがなう」という言葉にも「買い戻す」というニュアンスがあって、罪に売り渡されていた人間が買い戻されて救われるというイメージを伴っています。 だとすると、今日のたとえもそれが当てはまるのではないでしょうか。主人への債務が、もし神さまとの関係をたとえているのだとすれば、私たちはこの管理人にではなく、主人へ借金している一人一人に私たちの身を重ねざるを得ません。実際、油や小麦を借金しているのがもし自分ならば、その管理人がどんな不正を働いていようとも自分の借りが少なくなるのだから、こんなに助かることはありません。 そう考えてみたら、ふと、この管理人はイエスさまをあらわしているのではないか?と思えてきました。イエスさまを「不正な」管理人にたとえるなんて、と思われるかもしれません。しかし、管理人は「告げ口」で不正とされたのであって、事実がどうであったのかはついぞ知れません。同じように、イエスさまだってある人びとの「告げ口」で捕まってしまったのでした。しかも結局のところ、現代風にいえば起訴事実は不明のままでした。また私たちは、イエスさまが当時の社会としては正しくないとされることをいろいろしていたことも知っています。ときに安息日をないがしろに、「大食漢で大酒のみだ」と中傷されたことすらありました。 イエスさまは、私たちがふだん思っているよりも、ずっと自由でユーモアのある方だったに違いありません。このたとえの中では、主人が管理人の抜け目のないやり方を誉めるところなどはイエスさまのユーモアが良く出ています。それに比べて自分は…、となると、どうでしょうか。自分の枠に収まらないひとをいろいろもっともらしい理由をつけて、押しのけているのではないか、と思えてきます。 この一連のたとえとイエスさまの言葉とを、厳密に、理路整然と語り尽くすことはむしろ放棄したほうがいいのかもしれません。それよりも、この行間に吹き流れる「風」を感じたいのです。これらのみ言葉全体の向こうから吹いてくる「風」に、ただ身をさらしてみたい。その風は、私たちの思いや枠組みをはるかに越えて私たちに吹いてきます。その風こそが聖霊と呼ばれるものです。その風が、聖霊が、私たちの心に吹き込まれています。 Read More

2025年9月14日 聖霊降臨後第14主日(C年) 「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」【ルカによる福音書第15章1節から10節】

司祭 サムエル 小林宏治 今回は「見失った羊のたとえ」というお話です。このお話は、とても有名なたとえ話です。 あるところに、100匹の羊を持っている羊飼いがいました。ある日、羊飼いは羊を連れて野原に出かけ、羊においしい草を食べさせていました。しばらくして、羊飼いが羊を数えてみると、99匹しかいませんでした。すぐさま、羊飼いは、99匹の羊を野原に残し、見失った羊を捜しに行きました。羊飼いは、見失った一匹の羊を見つけ出すまで一生懸命探し回りました。そして、とうとう羊を見つけ出すことができました。羊を見つけた羊飼いは、喜んで羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人たちに、見失った羊が見つかった、その喜びを、話して回りました。 このお話は、100匹の羊と羊飼いの関係がとっても重要です。もし、羊飼いが、一匹ぐらいいなくなっても大したことないと思う人だったらどうでしょうか。違った結果となったでしょう。たとえ一匹でも、失うことのないようにと思っている羊飼い、100匹すべてが大切と思っている羊飼いゆえに、うれしい結果が待っていたのです。 この羊飼いは、ただの羊飼いではありません。この羊飼いは神様、またはイエス様を表わしています。また、羊はわたしたちと置き換えることができます。イエス様はすべての人を大切に思っておられるのです。ゆえに、神様から離れても、また、神様のもとに戻ってくることを喜ばれます。 いつもよい行いをしていたから、助けに来てくれたのでしょうか。イエス様は、どのような人であろうと、愛してくださいます。そして、助けてくださいます。困っている人、助けを必要としている人を助けずにはいられないのです。 イエス様は1匹でも迷い出れば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回わるといわれます。そして、見つかったら大きな喜びがそこにあると言われます。 この世界のだれもが神様に愛されています。わたしたち一人一人が神様に、そして、イエス様に愛されていることを覚えたいと思います。わたしたちは、神様にとってかけがえのない大切な存在なのです。また、自分だけでなく、他の人もそのような存在であることも忘れてはなりません。 Read More

2025年9月7日 聖霊降臨後第13主日(C年) 「イエス様に従うこと」

司祭 ヤコブ 岩田光正  「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうと、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」 今週の福音の中のイエス様のみ言葉はとても厳しい言葉です。 さて、「憎む」と翻訳されたこのみ言葉ですが、聖書の元々の言葉では憎しみの感情を表す意味ではありません。どちらかを選ぶという選択の意味があるそうです。イエス様は、16章でも、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」、と仰っています。ちょうど同じこの「憎む」という言葉が使われています。確かに、一方を選べば他方は捨てることになります、どちらも捨てたくないと思っている限り、実はどちらも選択していません。ということは、イエス様は自分に従おうとする者に、家族あるいはご自分そのどちらを選ぶよう覚悟を求めておられることになります。というのもこの時代、イエス様に従うことは、文字通り、命の危険にさらされることであり、また死をも覚悟しなくてはなりません。自分の命だけならまだしも家族、肉親の命まで巻き込んでしまいます、だからイエス様は、ご自分に従う者に覚悟があるのですか?と問い直されておられるのです。キリスト者になるとは、それほどに厳しい決断でした。 今でこそ命の危険を覚悟することはありません。では、イエス様のこのみ言葉を、私たちはどのようなメッセージとして受け止めたら良いのでしょうか? 福音の中でイエス様は三度も繰り返し、覚悟がなければ「わたしの弟子ではありえない」と語られています。最後は、「自分の持ち物を一切捨てないならば」とあります。「捨てる」こと、それはそれまで自分が執着していたもの、それがなくては生きていけないと思っていたものと別れを告げることです。 ところで、大事なのはこの言葉は、所謂、修道僧のごとく何も持ってはならないという意味ではありません。イエス様は決して富や権力さえ否定されてはおられません。イエス様はそれらを持つことで、それらのことばかり、それらはお金や地位、また家族も人間関係も含みあります、それら諸々のことに執着する余り、自分の心が神様のみ心から離れしまうことを戒めておられるのではないでしょうか?むしろ私たちはそれらのものを神様のみ心に叶う様に用いる責任を委ねられているのだと思います。それまでは、執着する余り思い煩い、それを失うと思うととても不安でした。しかし、キリスト者になった今はどうでしょうか?勿論、必要であることは同じです。しかし、これまでと違い「自分の持ち物」に対して、どこか見方や捉え方が変わったことがないでしょうか? 最後、主なる神さまは私たちに真の命を与えるために、ご自分を与えてくださろうとしました。私たちの根源的な罪からの救いのためにイエス様を送ってくださいました。独り子さえも惜しまず、すべてを捨ててくださったのです。イエス様はこの神さまの思いを果たすため、この後、十字架の道を歩んでいかれました。そして、今、私たちはこの神さまの真の命を信じ、神さまの家族・教会において十字架を掲げ、今週も神さまに感謝の賛美をささげています。 Read More

2025年8月31日 聖霊降臨後第12主日(C年)

司祭 マタイ 古本靖久 イエス様は婚宴のたとえを話されました。ここでいう婚宴とは、神の国の宴会のことです。あなたが神の国の宴会に招待されたらどうするのか、とイエス様は語るのです。 わたしたちが神の国の宴会に呼ばれたとしましょう。そのときに、それは当然だ、わたしは呼ばれるだけのことをした。呼ばれてしかるべき理由がわたしにはある。そのように考える人は果たしているでしょうか。 わたしたちが誰かを食事に誘うときに、どんな人を誘うでしょうか。家族や親戚、お世話になった人、仕事仲間や友人、これから関係を持ちたい人など。しかし神さまにとって、あなたはどんな関係なのでしょう。神さまからみてあなたは、ちっぽけな一人です。何度も罪を犯し、神さまに背き、本当であれば神さまに見捨てられてもおかしくないはずです。 しかし神さまは、そんなあなたを招かれるのです。あなたは半信半疑で、招待状を受け取るでしょう。あて名を間違ったのかもしれない。だまされているのかもしれない。でも恐る恐る招待状を手に、指定された場所についたら、「お待ちしておりました」と迎えてくれるのです。 通された部屋は、大きな広間です。あなたが心の底から、わたしなんてふさわしくない、場違いだと思うのであれば、上席なんかにつくことができるでしょうか。謙遜に、というレベルではありません。わたしたちが自分のことをちゃんとわかっているのか、そしてそれでも招いてくださる神さまのお恵みに気づいているのか、そういうことだと思います。 末席で、ただじっとしているあなたの姿を見て、招かれた方はこう語り掛けます。「さあ、もっと上席に進んでください」と。この「さあ」という言葉、原文では、「友よ」という意味の言葉が使われています。あなたは場違いではない。招きに応じたあなたは神さまにとって、「友」なのです。かけがえのない存在なのです。 Read More