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今週のメッセージ

2026年1月11日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(A年) 「正しいこと」とは?

執事 サムエル 藤井和人 今日のマタイ福音書では、イエス様が、ガリラヤのヨルダン川で、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられる場面が描かれています。 イエス様が、救い主メシアであれば、悔い改める罪を犯しているはずがないのに、なぜヨハネから洗礼を受けられる必要があったのでしょうか。誰もが疑問を抱くことなのだと思います。けれども、イエス様は、それは「正しいこと」だと言われ、あえて自ら進んで、ヨハネから洗礼を受けられました。 それは、弱さや脆さを持った私たちと同じ人間の側に立たれるということが、本当の救い主メシアとして、神様のみ心に適うことなのだと、イエス様は、洗礼を受けられることを通して、身をもって私たちに示されたのだと思います。 神様のみ心に適うことを、イエス様は、一言で「正しいこと」であると言われます。神様のみ心に適うことが、正しいことである。それは、私たちが持っている人間的な正しさとは、ある意味で、正反対のものであるように感じます。 私たちは、日々の生活の中で、「自分は正しい」と思っていても、相手にとってはそうではない場合が多くあります。そのようなとき、自分の正しさについていけない人がいると、ついつい、その人を攻撃してしまう弱さと脆さを持っています。 私たちは、それぞれ異なった背景があり、それぞれの想いも持って、教会に集められます。そのように教会では、それぞれの想いが渦巻く中で、人間関係のトラブルによって、お互いに理解し合えず、妬みや争いが生じることもあります。 けれども、そのようなときこそ、洗礼を受けられたイエス様が示されたように、神様のみ声に耳を傾け、私たちが持っている正しさではなく、神様のみ心に適うことが何であるのか、何がなされるべきかを、神様の助けを求めながら、共に問うていくことが、私たちに示された道なのだと思います。 Read More

2026年1月4日 降誕後第2主日(A年)

司祭 アントニオ 出口 崇 『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、そこにとどまっていなさい』マタ2:13  2025年12月29日は「聖なる幼子の日」という、年末最後の祝日がありました。クリスマスの直後に、エジプトに逃亡するイエス様とその家族。そして、ヘロデによる幼子の虐殺という痛ましい記事が書かれています。イエスさまのこの世での生は、最初から苦難に満ちていました。「クリスマスおめでとうございます」と私たちは、あたかもハッピーエンドのお話を見た後のように言っていましたが、マリアとヨセフにとっては、全く心休まる時がなかったのではないでしょうか。疲れ果てて眠っているヨセフに天使はヘロデ王の迫害から逃げるように命じます。そして、逃亡先のエジプトで、落ち着いた生活をしていたのに、再び命の危険のあるイスラエルに戻るように言われます。 私たちの世界を見ましても、クリスマスや、新年を素直に喜べない状況があります。戦争や、災害、また、親しい人の死と言うものに直面するとき、神さまの御心が分からなくなる。元々分からないが、「なんで」という疑問がわいてきます。 『起きて、子供とその母親を連れて…』天使の言う「起きろ」という言葉は、ただ、睡眠、疲れて眠りこけている状態から目を覚ますことを意味しているだけでなく、神さまから心を離れた人に対して、神さまに心をむけさせる言葉でもありました。その命令には、神さまの保障がある、私が共にいるから「起きなさい」という意味を持つ言葉でした。 天使のお告げを聞いたヨセフは、「何で」という疑問を持ちながらも、共にいてくださる神様に全てを委ねて行動したのではないでしょうか。そして、そんなヨセフとマリアに、幼子であるイエスは全てを委ねていました。 新しい年、よい年であるように、私たち一人ひとりに関わる全ての人に、あまりしんどいことがないように、と祈りつつも、復活のイエス様の「起きろ」という言葉に耳を傾けていたいです。 Read More

2025年12月28日 降誕後第1主日(A年) 「夜の色」

司祭 マタイ 出口 創  歌手中島みゆきさんの楽曲に、「夜の色」という歌があります。多分著作権の関係で引用できないと思いますので、歌詞の趣旨を概略します。 人は暗闇の夜を恐れている。光を希望だと思っている。そこに人は騙されていないだろうか。光があれば夜ではないと思い込んでいる。では、白夜はどうだ。鳥たちだけが騙されずに、光があって明るいけれども、実は夜だと理解して、ねぐらに向かう。 こんな感じです。ぜひぜひ本物を聞いて、歌詞を味わってください。  昨今のSNSやネット、またはそれらを引用しているテレビでは、デマやフェイクニュースなどが、声高に言いっぱなしで、無秩序に混沌としているように思います。何が事実で何が個人の主観なのか、何が誰の引用で、何がAIによって作り出された虚構なのか。私の理解力をはるかに超越していて、このような世界では生きていけないと思って、SNSやネット上の映像や言説には、接していません。  ところで、これらの映像や言説は、一昔前のパチンコ屋さんの照明にたとえられるかもしれません。夜の幹線道路沿いに立ち並ぶパチンコ屋さんの照明。煌々と周囲を照らし出して、そこだけまるで真昼のように明るい。通り人の目を突き刺すばかりに自己を主張する。何ならレーザー光線が夜空に突き刺さる。人工的に作り出された虚構の光なのに。  新約聖書『ヨハネによる福音書』1章5節は、イエスのことを次のように述べています。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」。 闇の世界に光として誕生したイエスが、最初に「光あれ」(旧約聖書創世記1章3節)との言葉で天地創造を開始し、主と呼ばれている神ご自身であることを、ヨハネによる福音書は伝えています。古代においては、夜=闇だったかもしれません。でもいつの頃からか、夜でも人工的な光によって、必ずしも暗闇ではなくなっています。  人工的な虚構の光は、煌々と目に突き刺さるくらいにまぶしく、自己を強烈に主張します。しかし、真の光イエスは、広い世界の、また長い歴史の、ほんの片隅に、極々ひっそりと小さく、人間の赤ちゃんとして誕生しました。真の光は自己を強烈には主張しません。  今、私たちは、人工的な虚構の光によって、昼の中にいると騙されていないでしょうか。真の光イエスを、見失っていないでしょうか。「夜の色」に騙されず、極々弱く、ささやかながらも真の光であるイエスの降誕を覚えたいと思います。  クリスマス、おめでとうございます。 Read More

2025年12月21日 降臨節第4主日(A年) ヘルプ出しいやぁ

司祭 ヨハネ 荒木太一  「しるしを求めなさい」【イザヤ書 7:11】  子どもの帰りが遅い。暗くなってから帰って来て言うには「自転車がパンクして押して帰って来た」と。「ヘルプ出しいやぁ。そのための携帯やんかぁ。すぐに迎えに行ったるのに」と私。ピンチのときにヘルプを出してくれたら必ず助けに行くのに…。  紀元前733年、弱小国のユダも危機にありました。大国アッシリアの圧力に押され、隣国のイスラエルとシリアが組んで戦争を仕掛けてきたのです。怯える王様アハズに預言者イザヤは告げました。「主にしるしを求めよ、陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ」。地獄の底まで、天の極みまで。  しかしアハズは偽の敬虔を装って信頼せず拒絶します。「私は求めません。主を試しません。」それに対してイザヤは、それでも与えられる神の約束のしるしを告げました。「おとめが身ごもって男の子を生む。その子の名はインマヌエル。主が共にいることのしるしだ」と。  最初のクリスチャンらはこの預言がイエスさまの内に成就したと解釈し、喜びました。「主はどれだけ長い年月が流れても、国が滅びて捕囚になっても、決して自分たちを忘れず、ダビデとアハズの約束に忠実でいてくださった。共にいてくださった。だからこれからも具体的な歴史のなかで、必ず私たちと共にいてくださる。」  人生の危機、教会の危機にあって、私たちはつい自分の考えの範疇に留まり、勝手に諦めます。助けを求めません。しかし神は私たちがご自身を信頼し、助けを求めること、愛と導きのしるしを求めて欲しいのです。そしてそのしるしは必ず成就します。そして証明します。「私はあなたと共にいる」ことを。  あなたはこのクリスマス、どんな助けを、どんなしるしを求めますか。あなたの教会の一員としてどんな助けを、しるしを求めますか。  既に一つ確かなしるしが与えられています。それがイエスさまが目の前にいるしるし、聖餐です。これを祝うとき私たちの中で成就します。主は確かに共にいる。  しるしを求めて教会のクリスマスに集まりましょう。 Read More

2025年12月14日 降臨節第3主日(A年)

司祭 ルカ 柳原健之  先週に引き続き洗礼者ヨハネが登場する箇所が読まれました。ヨハネはイエスが公に活動する前に、神の裁きが迫っており、それに耐えるためには、罪を告白し悔い改めが必要であると宣べ伝え、イエスに洗礼を施した人物でもあります。しかし、時の権力者であったヘロデを批判したがために捕らえられ、牢屋に入れられていました。 彼はそんな状況にありつつも、イエスの噂を耳にしていました。しかし、一つの問いが浮かび上がり、弟子を遣わして尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と。あの荒野で大胆に神の言葉を語り、メシアを指し示すことに人生のすべてをかけたヨハネでさえ、状況が自分の思い描いたものと違った時、迷い、問い、確かめようとしたのです。  ヨハネの問いに、イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と言われます。そして盲人が見え、足の不自由な人が歩き、病に苦しむ者が癒され、貧しい者に福音が告げ知らされていることも。イエスは確かに神の国が始まっていること、貧しい人々、弱い者、社会の片隅にいた人々から訪れていることを語っておられるのです。そしてイエスは、ヨハネに対する最後の言葉としてこう告げられます。「わたしにつまずかない人は幸いである。」イエスは、ヨハネの問いを責めず、むしろ、つまずきやすい現実の中で、「それでも信頼して歩む者は幸いだ」と励ましておられるのです。  イエスは群衆に向かって、ヨハネのことを「預言者以上の者である」と高く評価されています。ただ、神の国に至る者で、その最も小さい者であったとしても、ヨハネ以上に尊い存在になるのであるともいわれます。神の国においては、価値の逆転が起こり得るのです。慰めと希望があることを教えてくださっています。  信仰生活を送る中で、主に対する疑いは起こり得ることです。時に厳しい現実と向き合う時ほど、神の働きが遅く見え、「本当に主はおられるのか」と問い直すことがあります。ただ、それは信仰の弱さではなく、むしろ神に真剣な期待するからこそ表れてくるものなのです。 疑いを超えていくことは簡単なことではありません。しかし、神の国は確かに始まっています。あなたのすぐ側、主があなたと共にいてくださって、始まっているのです。主を信頼して歩んでいくことができますように。 Read More

2025年12月7日 降臨節第2主日(A年) 「心を改める」

執事 ダビデ 梁 權模 降臨節も第2週を迎えました。慎みながら待つ紫の季節のど真ん中へと、私たちの時間は進んでいます。この紫の季節において最も求められるのは待つことです。その中でも慎んで待つこと、特に「慎む」ことでしょうか。ご存じの通り、慎むことは「用心し、おそれつつ節度を保つ」ことを意味します。その慎むの字形についてですが、心に真を書いています。 字形の原理としては、「心に隙間がないほど十全に気を配っていること」を表すそうです。過ちを起こさないように、小さな隙間もないほど心の全体を見回し、気を配ることから、「節制し、節度を保つ」という意味としてこの字を使うようになったのでしょう。 「心に隙間がないほど十分に気を配ること」といえば、何を思い出すのでしょうか。例えば自己を省察することなのではないか、と私は思っています。そのことが、心を改めるということとつながるのであるように思います。 しかし、心を改めることは容易いことではありません。というのは、心を改めることが意味するのが、一部だけを直すということを意味していないと思われるからです。どちらかといえば、隅々までのあらゆるものを新しく入れ替えることに近いと私は思っています。 本日の福音書箇所において、洗礼者ヨハネが宣べ伝える悔い改めも同じコンテキストで理解されるのかと思います。洗礼者ヨハネがファリサイ派とサドカイ派の人々に対して言った言葉の中で、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉がありました。 これは、続く10節の言葉と合わせると、当時のユダヤ地方にいる人々のことを果樹園の木にたとえて、天の神様のことをその主人としてたとえていることが分かります。そのことから考えられるのは、果樹園の主人である神様は、木であるみんなが自ら根っこを変えて、良い実を結ぶことを求められているということです。それができない木は、切り倒されて火に投げ込まれるという恐ろしい結末を迎える。 しかし、木が自ら根っこから新たに変わるということは難しいことです。いわゆる、その性質を全く別のものに変えるということだからです。何年も良い実を結んでいない木がいきなり良い実を結ぶということは、難しいことなのです。 心を改めることも、このことに似ていると思います。木の性質をまた別のものに変えることと同じく、今までの歩みや行い、思いを180度変えることなのです。 それは、当然ながら自分一人ではとても難しいことです。今まで慣れてきたことを手放し、新しくなることが求められるので、よほどの覚悟や決心がない限り、そのような決断を下すことはなかなか難しいからです。 そのことについて悩み、苦しんでいる私たちに天の父なる神様が与えられる恵みは、ご自分の独り子を私たちにお与えになったことです。私たちとともにおられ、悩み苦しむ私たちのために絶えず祈られるイエス様を通して、自分を省みて心を改める私たちのことを神様が決して見放さないと約束してくださったのです。私一人ではできないことを、神様の恵みを通してそれが可能になるのです。 天の父なる神様は洗礼者ヨハネを通して、自らを悔い改めることを伝えられます。しかし、それは私たちを罰するためではなく、私たちに約束された大きな恵みであるイエス様を迎えるためです。自らを省みて自分の心を改めることで、イエス様を迎えるにふさわしい心と姿勢をそなえる。そのことが、私たちに求められている「心の改め」であると思います。 私たちはイエス様の降誕という大きな恵みにあずかるために、心を改めてイエス様を迎える準備をしています。私たちを救われるために、ご自分の独り子をお与えになった神様に深く感謝いたしながら、続く降臨節の日々において自らの心を改めていけることを祈りましょう。 Read More

2025年11月30日 降臨節第1主日(A年)

司祭 エッサイ 矢萩新一 今日から新しい教会暦が始まり、クリスマスの準備の時を過ごそうとしています。教会の一年は、私たちが何を求めて生きていく存在なのか、自分自身を見つめ直す「紫」の祭色の期節・降臨節からはじまります。アドベントとも呼ばれるこれからの4週間は、イエスさまの誕生を目前に控え、心の準備をするときですが、その最初の主日である今日の福音書では、イエスさまの誕生についてではなく「人の子」イエス・キリストが再び来られる日、つまり終わりの日を待つということについて記されています。生きることは死を考えることだと言われるように、救い主のご降誕を待つことは、同時に終わりの時を意識して生きることだと教えています。 イエスさまは、終末がいつ来るのか分からないのだから「目を覚ましていなさい」と言われます。いつ来るのか分からない、どんな事が起こるのか分からない、その時をわきまえて準備しておくのはとても難しい事です。終わりの日とは、私たちの上に実現する神さまの救いの日のことで、私たちが神さまの救いを逃すことのないようにと、イエスさまは語られます。私たち一人ひとりが神さまに「よし」とされ、尊ばれている命を生きる者として、互いに愛し合う世界が実現する日が、救いの日です。ノアの洪水の前は食べたり飲んだりして、ごく当たり前の日常生活を人々は送っていましたが、神さまのみ心には無関心で、心に留めようとしていませんでした。そんな時に突然、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付きませんでした。私たちも日常の生活の中で、忙しさや気持ちの余裕がない時ほど、神さまの呼び掛けを忘れてしまいがちです。そして、神さまのみ心を忘れ去るような出来事が身の回り起こっているのに、それでもなお、私たちは無関心でいようとしてしまいます。 終わりのときがいつ来るのかということが重要なのではなくて、その時がいつ来てもいいように、よく生きるということが大切です。一人一人の命が大切にされてない状況を心に留め、神さまのみ心を意識して、目覚め、わきまえて、用意する、救いの時を確信して願い求めるという生き方、それが私たちの信仰生活であるということを今日の福音書から再確認したいと思います。目覚めているということは、イエスさまの生きざまに出会い、その死と復活の意味を覚えているということです。イエスさまと出会う私たちは、今まで通用していた価値観が全く通用しないことを突きつけられる体験、ある意味で死を体験することがあります。持っているものが通用しないと分かったとき、死を経験して新しい愛の命に復活する。洗礼や聖餐という私たちが大切にしているものの中に、絶えずイエスさまの死と復活があって、それが神さまの愛に基づくものであることを意識させられます。そのような意味で、降臨節は希望の光であるイエスさまの到来を「待つ」期節なのです。 私たちの周りには、死や滅びの世界がたくさん垣間見えるかも知れません。しかし、イエスさまの十字架の死と復活の生きざまを知る私たちは、この世における死や滅びの向こうに、神さまの愛があり、その愛が完成する終わりの時があることを信じ、望む者です。イエスさまの誕生という、今は目に見えない恵みを、私たちの心の中に受け取るのがクリスマスです。何気なく過ごしていても、毎年必ず12月25日は巡り、イエスさまはこの世に誕生されます。私たちは、ただ漠然と時を過ごすのではなくて、イエスさまは私たちに命を与える為、愛の炎を燃やす為、平和をもたらす為に、この世にお生まれになるという事を思い起こしたいと思います。全ての人に愛と命の光がともされていく喜びを楽しみに待つことが、アドベント意味であることを再確認しながら、降臨節の4週間を歩んでまいりましょう。 Read More

2025年11月23日 降臨節前主日(C年)

司祭 ダニエル 鈴木恵一 教会の暦は一年を締めくくり迎えました。わたしたちはそして救いの完成へと心を向け、そしてこれからはじまるキリストを迎える備えの季節に向けて心を整えていきます。 きょうの福音書で語られるイエスさまの姿は、十字架の上で、罪なきお方でありながら最も深い苦痛を受けられる姿です。人々は「自分を救ってみろ」と嘲笑しましたが、イエスさまはご自身を救う力を持ちながらも、あえてなさいませんでした。これは、単に暴力を容認することとは違います。むしろ、暴力に苦しむすべての存在と深く連帯する姿です。 暴力は人を孤立させ、力を奪います。イエスさまもまた、人からも神からも見捨てられたかのような絶望の中に置かれました。しかし、イエスさまはその極限の苦しみの中で、神さまへの信頼と人への愛を失いませんでした。絶望や憎しみに支配されることなく、自分を十字架につけた人々までも愛し抜かれました。 その無力に見える十字架の中にこそ、愛と連帯によって暴力の連鎖を断ち切り、真に打ち勝つ力が宿っています。そして、救いの完成の姿もそこにあります。 イエスさまを信じた一人の犯罪人が「御国においでになるとき、わたしを思い出してください」と願ったとき、イエスさまは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されました。苦しみのどん底にあっても、イエスさまが共にいてくださると気づいたその場所が、すでに楽園となる。イエスさまの御前には、常に新しい命と希望があります。 わたしたちは、イエスさまがいつも共にいてくださることに感謝し、その愛と光の中で祈りをささげていきましょう。 Read More

2025年11月16日 聖霊降臨後第23主日(C年)

司祭 マーク・シュタール 今日の福音書(ルカによる福音書21:5-19)は今の聖霊降臨節の終わりに相応しいです。なぜなら、イエスは終わりの時の「終末論」について語っているからです。ある意味、イエスは紅葉や落ち葉の季節と同じ話をしています。だけど、イエスの紅葉の絵に美しさはありません。イエスの「key message」は「それはあなた方にとって証をする機会となる」です。しかし、イエスは注意します。私たちは一人ではなく、イエスが私たちに与えてくださる恵みが示されています。それは「どんな反対者も対抗勢力も反論もできないような言葉と知恵を、神様は私たちに授けてくれる」というものでした。これは今日の旧約聖書(マラキ書3:13-20b.23-24)に書いてある約束、そして使徒書(テサロニケの信徒への手紙二3:6-13)の統一の贈り物と全く一緒です。イエス・キリストを信じたために死刑にされた最初の殉教者から2,000年たった今、この同じ言葉は私たちに深い慰めをくれます。今、日本では様々な脅威がありますが、ほぼ平和で安全な時代です。キリストを信じる人が迫害されることはありません。でも、イエスの時代で、キリスト者たちの緊迫した状況はよく伝わってきます。今を生きる私たちも、それぞれ信仰が揺らぐことがあるかも知れません。私たちはそのような経験を神様に「証をする機会」が必要です。つまり、私たちの心でイエスの声を聞きます。その声はイエスの「知恵の言葉」です。 秋という季節には矛盾があります。秋の美しさとは裏腹に、秋は死の訪れを示唆しています。そして、今日の聖書のみ言葉でも矛盾があります。簡単な真理が示されています。「彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ(マラキ書)」や「働きたくない者は、食べてはならない(テサロニケの信徒への手紙二)」とはありますが、後で来るのは神様の悪事を戒める裁きです。もう一つ、終わりの時、また、一人一人のしんどい時も、イエスの声と力に頼ることが出来ます。今日の聖書のみ言葉は、私たちの信仰も神様もいつも二つのレベルで働いているということを示しています。一つのレベルは明らかで合理的です。もう一つは見えにくく不合理的です。この二つのレベルがあるからこそ、私たちはイエスの助けが必要なのです。私たちは終わりの時であるにもかかわらず綺麗な秋の紅葉を楽しんで見ることができるのです。 主に感謝 Read More

2025年11月9日 聖霊降臨後第22主日(C年)

司祭 ヨシュア 大藪義之 ある教会にとても信仰に篤い夫婦がおりました。その夫婦はとても仲が良く過ごし、子どもが生まれるのを望んでいましたが、残念ながらその願いはかなえられず、数年して夫が病気で亡くなってしまいました。失意の中にある妻でしたが、数年してある人、(この人もとても熱心なクリスチャン)との出会いがあり、再婚することとなりました。ところが先の結婚と同様、子どもが生まれるのを望んでいましたが、残念ながらその願いはかなえられず、二人の一生は終わりを迎えました。三人とも神様の国へと旅立ち、天国で相まみえることとなりましたが、さて、この女性は先の夫の妻としてか、再婚した夫の妻のどちらになると思いますか?「復活についての問答」と題されるルカによる福音書20章27節以下の記事を、現代風にすると上記のお話しのようになるでしょうか? この記事に出てきた「サドカイ派」という人たちは、「モーセ五書=律法」の権威を特に重んじてり、また、イエス様の時代には、祭司や地主という貴族階級の人々からの支持を得て、政治的な実権を握り、ユダヤ教の指導的地位にある保守的な人たちの集まりで、「復活」を強く否定していました。申命記25章5節には以下のような規定があります。『兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。』イスラエル民族を絶やさないように、またその血統を守り継がせるように、義兄弟との結婚が義務づけられていました。これは「レビラト婚」といわれるもので、さらにサドカイ派の人たちは「復活」はあり得ない、と考えていましたから、この記事のように7人もの兄弟と再婚を重ねて、もし「復活」があるとしたなら、その女性は誰の誰の妻になるのか?とイエス様に迫りました。 その問いかけに対してイエス様はこのように応えられました。『次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。(死ぬことができない)天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』 イエス様に結ばれ、神の国にふさわしい者とされた人は、「娶る(めとる)」とか「嫁ぐ」といった誰かに所有される存在ではなく、神様のもとに解放され、神の子として自由な存在として生きる者となることを示されました。文字(律法)でがんじがらめにされるのではなく、神様に吹き込んでいただいた息(=命)によって生きていることを感謝しましょう。 Read More