司祭 クリストファー 奥村貴充
かなり昔のことになりますが、礼拝で使う行進用の十字架を初めて持った時、こんなに重いのかと感じたものでした。たぶん真鍮製かと思いますが、縦にまっすぐ持ちながら行進するとフラフラとなってしまいました。しかし、イエスが担いだ十字架はもっと重かったに違いありません。エルサレムの旧市街にはイエスが十字架を担ぎながら歩いたとされる道がありますが、実際に巡礼の旅に行くと感慨深いものがあります。
今日の物語(マタイによる福音書27:1-54)の中で大切にしたい聖句は32節「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」という箇所です。この聖句はどんなに理不尽なことだと思っても、神の計画の内に、救いに導かれていくことを示しています。キレネ人のシモンは「なぜ自分が?」と思ったに違いありません。本文には直接書かれていないのですが、ローマの兵隊が語った一言「本当に、この人は神の子だった」という言葉をキレネ人のシモンも聞いていたことでしょう。旅の道すがら無理やり担がされる十字架、とんでもない災難に遭ったと思っていたら、実は神の子、救い主イエスとの出会いだったのでした。
これに関連して、今日の物語を読むと50代半ばで主の御許に召された人のことを思い出します。コロナ前の当時は病院には簡単に入ることができて、何回か塗油の祈りに行ったものでした。その人は「なぜ自分がこの病気に?」と思ったに違いありません。想像を超えるような深い葛藤に苦しんだことでしょう。訪問の時の対話で、将来を悲観したその人が唇を一瞬だけ噛んだ時の表情が今も鮮明に覚えています。
そういう苦しみの中で、何日か経ったある日のこと、病床で語りかけた言葉があります。「イエスと同じ苦しみを担っています。光栄です。死は怖くありません」と。この言葉は感慨深いものに聞こえました。主イエスの担う十字架は、その人にとっては自分も担う十字架でもあったのでした。死の恐れに直面する中で、まさに主イエスがこの人とともにおられることを感じさせられたたものでした。
人生には誰しも不本意に思えることがのしかかってくることがあります。そういう重荷を背負うことは主イエスとともに重荷を背負っていることでもあります。これは単なる気休めではありません。重荷を背負う時に、主がともにおられ、神の救いの計画の内に自分も招かれていると言えるでしょう。キレネ人のシモンの物語の他に、病者訪問で出会った人の信仰体験がそのことを証ししています。