司祭 ヨハネ 黒田 裕
何年も前のことになりますが、ある旧約学の先生から、神の義というものは、規範的なものというより、もっと宇宙論的に理解される必要があると教わり、目からウロコの取れる思いがしました。そして、いま私自身はそれを押し広げて、神の義だけでなく、神の言葉も愛も恵みも宇宙論的に、つまり天から放出され降り注ぐ恵みの温かい力として受け止めたいと思っています。なぜなら楽園を追放されたアダムとイヴには神みずから手作りした皮の衣が着せられたからです。裏を返せば、神さまから離れるのはとても寒いことといえます。しかしながら、神さまは人が寒さのうちに死に絶えることを望みませんでした。そこで、まず温かい衣を着せました。そしてこれが憐れみや恵みの原イメージなのです。状況的には「お寒い」。だからふたりは葉っぱを腰に巻いたのです。
そして使徒書です。一人のひとアダムによって「お寒い」人間状況がもたらされたように、ひとりのキリストによって温かな人間状況がもたらされました。それは17節から言えば、神から離れて自己が自分の主人になろうとするとお寒い状況、つまり、かえって自分の人生を生きられないということになり、そうではなく、イエス・キリストの温かさに支配されるとき自分の人生を生きられる、といえます。そして、それを私たちに先立ってその身で証しされたイエスさまの姿が本日の福音書に出てきます。
ここで受け取りたいのは、神の口から出る一つひとつの言葉は、義と同じく天から放出され、わたしたちを包む温かい陽光だということです。ここで、つくづく思うのです。わたしたちが三寒四温の季節から春にかけて大斎節を過ごすことができるのは本当にありがたいことだ、と。私たちはいくらなんでも寒さばかり続くことには耐えられない。三寒四温の季節にも似て、一週間おきに主日を迎え、ひとときの復活の温かさを楽しむのです。ちなみに全くのこじつけですが、「四温」は都エルサレムが建つ丘「シオン」と音が同じですね。
大斎節第一主日です。いわば四温の「温」の一つ目がやってきました。この時に初めの人が置かれたお寒い状況との対比でイエス・キリストの真理が明らかとなりました。そして、荒野でのお寒い状況をもたらす悪魔の誘惑に抗して、イエスさまは神の言葉を中心にして悪魔を退けました。これは、神さまが主権を持たれることによって、むしろ、わたしたちが自分の人生の主人公となることを意味しました。それは他でもない、この、とても寒い時代のなかで、神さまの言葉の温かさに包まれて生きること、といえるのではないでしょうか。