司祭 ヤコブ 岩田光正
今週の福音で、イエス様は、わたしたちに「あなたがたは地の塩」であると言われます。古来、塩は、世界中どこでも人間にとって必要不可欠の物でした。塩は、食物に味を付けることです。ただ塩加減はなかなか難しいものです。少なすぎると味気ない、反対に加えすぎても辛すぎます。また、これが大事、塩は他の味を引き出すためにも用いるものです。例えば、スイカ。塩がスイカの持っている甘みを引き出します。どちらにせよ塩は、隠れていて良い働きをします。
イエス様は、あなたたちは、この塩のように目立たないで他の人を引き立てたり、他の人が持っている本来の良さ、その良さをそっと陰で引出して上げることができる。イエス様は、わたしたちにそのことを言っておられるのではないでしようか。
「あなたがたは世の光である」この言葉も、同様のことを表しています。光は、周囲を明るく照らすためのもので、隠しておいては用を為しません。ただ、光も塩と同様、加減が必要です。眩しすぎても周囲から見えなくなってしまいます。また、ギラギラとした光は、人を落ち着かない気分にさせます。適度な加減で明るく照らす光は、人に安心を与えて、気持ちを穏やかにしてくれます。イエス様は、この光のように、世の闇を照らして、人に希望を与えることができる、イエス様はそのようにわたしたちに教えておられるのではないでしょうか?
さて、私の勤務している幼稚園では、来週末、生活発表会が行われる予定です。先生たちが、連日、保育中は、子ども達一人ひとりに寄り添い、練習を指導、保育後も遅くまで色々な準備に励んでいます。そして、例年、当日は、決まって、どの家族も我が子の成長した姿に感動します、日頃、子育てに悩んでいるお母さんも目を潤ませたりして喜んでいる光景を見ます・・・ある意味、先生たちは、「地の塩、世の光」的な存在だといつも敬服させられます。目立たず、隠れたところで、いつも子ども達の持っている力をそっと引き出してあげる、そして、自分たちは目立たず、子ども達の姿から輝いている光によって安心や自信を与えています。
ところで、今の世の中、周囲を見渡せば、他者よりも過度に目立つことを求めたり、他者と比べて自分を輝かそうとギラギラと光を放とうとする、しかし、そのことで逆に人によっては、気分が穏やかでなくなってしまう。そんなことないでしょうか?ちょうど今、衆議院選挙を前に、どの候補者も物凄い熱量の訴えです。しかし、良い加減でないのです。個人的には、塩味が強すぎ、光の加減も明るすぎのように感じます。そのような今の状況の中、イエス様の語られた「あなたがたは地の塩、世の光である。」この言葉をわたしたちキリスト者は、どのように受け止めればよいのでしょう?
いま一度、イエス様の言われた塩そして光について、考えてみます。塩は、必要不可欠であると共に、隠し味です。生命を陰で支え、引き立てる存在です。光も塩と同様、生命に欠かせない存在です。また、周囲を明るく照らして輝かせます。生命を穏やかに落ち着かせます。さらに、この点が大事です。塩と光、そのどちらも、あまりに身近すぎて、普段は、特別にその存在を意識しません。有り難みを忘れてしまいがちです。
以上のように考えてまいりますと、イエス様は、特別な努力をしなさいと仰っておられるのではないのではないでしょうか?目立たなくても、派手に輝かなくても良いのではないでしょうか?ただ、神様から与えられた生命を、隠れたところで、一生懸命、ありのままに生きていく、その自分のありのままの生き様を通して周囲の人のために生きる、そのことで自分の生き様でキリストの光が輝いていたら、それこそキリスト者が「塩」と「光」である、ということなのでしょう。
最後、イエス様は、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われています。「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」とは、命じられてはおられません。キリスト者である私たちは、その愛にいかされ、その愛に生きる私たちは、すでに地の塩であり、世の光であるのかもしれません。そのように普段の日々を歩んでいければと思います。