司祭 エレナ 古本みさ
今週の福音書は、漁師のペトロとアンデレがイエス様から「わたしについてきなさい」と声をかけられ、すべてを捨てて従うという弟子の誕生物語が記された箇所です。とても美しいシーンですが、長らく私はこの「人間をとる漁師」という表現に、どこか良くないイメージを抱いていました。強引な宗教勧誘を思い起こさせたり、困っている人を救ってあげるという“上から目線”のようにも聞こえたりしたからです。
しかし最近、ある本を読んで少し目が開かれました。旧約聖書の時代から、魚を捕る漁師はしばしば裁きの比喩として用いられてきました。マタイによる福音書14章の「天の国のたとえ」にも、そのような場面が見られます。
「裁き」という言葉も、私たちはついネガティブに受け取りがちです。しかしその著者は、裁きを「決断」と呼び、イエスの弟子となった者たちは「自分たちが本当は何者なのかを神と一緒に決める、その決断の瞬間へと人々を導く」と解釈していました。イエスを知ることは神を知ることです。そして同時に、自分が何者であるかを知ることでもあるのです。
私たちがイエスに従い、弟子になる決断をするとき、私たちはその教えをあまりに重視して、「より良い人間になるために自分の生き方を模索し続けること」がゴールのように思いがちです。しかし弟子の歩みは、実はもっと外向きで大きなことなのかもしれません。迷っている人に寄り添い、決断へと導く。そして、イエスの目を通して世界を見るように招くこと。そのような弟子の在り方を、大斎節に入るまでのこの緑の期節、心に留めていたいと思います。