司祭 ルカ 柳原健之

 先週に引き続き洗礼者ヨハネが登場する箇所が読まれました。ヨハネはイエスが公に活動する前に、神の裁きが迫っており、それに耐えるためには、罪を告白し悔い改めが必要であると宣べ伝え、イエスに洗礼を施した人物でもあります。しかし、時の権力者であったヘロデを批判したがために捕らえられ、牢屋に入れられていました。
 彼はそんな状況にありつつも、イエスの噂を耳にしていました。しかし、一つの問いが浮かび上がり、弟子を遣わして尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と。あの荒野で大胆に神の言葉を語り、メシアを指し示すことに人生のすべてをかけたヨハネでさえ、状況が自分の思い描いたものと違った時、迷い、問い、確かめようとしたのです。

 ヨハネの問いに、イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と言われます。そして盲人が見え、足の不自由な人が歩き、病に苦しむ者が癒され、貧しい者に福音が告げ知らされていることも。イエスは確かに神の国が始まっていること、貧しい人々、弱い者、社会の片隅にいた人々から訪れていることを語っておられるのです。そしてイエスは、ヨハネに対する最後の言葉としてこう告げられます。「わたしにつまずかない人は幸いである。」イエスは、ヨハネの問いを責めず、むしろ、つまずきやすい現実の中で、「それでも信頼して歩む者は幸いだ」と励ましておられるのです。

 イエスは群衆に向かって、ヨハネのことを「預言者以上の者である」と高く評価されています。ただ、神の国に至る者で、その最も小さい者であったとしても、ヨハネ以上に尊い存在になるのであるともいわれます。神の国においては、価値の逆転が起こり得るのです。慰めと希望があることを教えてくださっています。

 信仰生活を送る中で、主に対する疑いは起こり得ることです。時に厳しい現実と向き合う時ほど、神の働きが遅く見え、「本当に主はおられるのか」と問い直すことがあります。ただ、それは信仰の弱さではなく、むしろ神に真剣な期待するからこそ表れてくるものなのです。
 疑いを超えていくことは簡単なことではありません。しかし、神の国は確かに始まっています。あなたのすぐ側、主があなたと共にいてくださって、始まっているのです。主を信頼して歩んでいくことができますように。