執事 ダビデ 梁 權模
降臨節も第2週を迎えました。慎みながら待つ紫の季節のど真ん中へと、私たちの時間は進んでいます。この紫の季節において最も求められるのは待つことです。その中でも慎んで待つこと、特に「慎む」ことでしょうか。ご存じの通り、慎むことは「用心し、おそれつつ節度を保つ」ことを意味します。その慎むの字形についてですが、心に真を書いています。
字形の原理としては、「心に隙間がないほど十全に気を配っていること」を表すそうです。過ちを起こさないように、小さな隙間もないほど心の全体を見回し、気を配ることから、「節制し、節度を保つ」という意味としてこの字を使うようになったのでしょう。
「心に隙間がないほど十分に気を配ること」といえば、何を思い出すのでしょうか。例えば自己を省察することなのではないか、と私は思っています。そのことが、心を改めるということとつながるのであるように思います。
しかし、心を改めることは容易いことではありません。というのは、心を改めることが意味するのが、一部だけを直すということを意味していないと思われるからです。どちらかといえば、隅々までのあらゆるものを新しく入れ替えることに近いと私は思っています。
本日の福音書箇所において、洗礼者ヨハネが宣べ伝える悔い改めも同じコンテキストで理解されるのかと思います。洗礼者ヨハネがファリサイ派とサドカイ派の人々に対して言った言葉の中で、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉がありました。
これは、続く10節の言葉と合わせると、当時のユダヤ地方にいる人々のことを果樹園の木にたとえて、天の神様のことをその主人としてたとえていることが分かります。そのことから考えられるのは、果樹園の主人である神様は、木であるみんなが自ら根っこを変えて、良い実を結ぶことを求められているということです。それができない木は、切り倒されて火に投げ込まれるという恐ろしい結末を迎える。
しかし、木が自ら根っこから新たに変わるということは難しいことです。いわゆる、その性質を全く別のものに変えるということだからです。何年も良い実を結んでいない木がいきなり良い実を結ぶということは、難しいことなのです。
心を改めることも、このことに似ていると思います。木の性質をまた別のものに変えることと同じく、今までの歩みや行い、思いを180度変えることなのです。
それは、当然ながら自分一人ではとても難しいことです。今まで慣れてきたことを手放し、新しくなることが求められるので、よほどの覚悟や決心がない限り、そのような決断を下すことはなかなか難しいからです。
そのことについて悩み、苦しんでいる私たちに天の父なる神様が与えられる恵みは、ご自分の独り子を私たちにお与えになったことです。私たちとともにおられ、悩み苦しむ私たちのために絶えず祈られるイエス様を通して、自分を省みて心を改める私たちのことを神様が決して見放さないと約束してくださったのです。私一人ではできないことを、神様の恵みを通してそれが可能になるのです。
天の父なる神様は洗礼者ヨハネを通して、自らを悔い改めることを伝えられます。しかし、それは私たちを罰するためではなく、私たちに約束された大きな恵みであるイエス様を迎えるためです。自らを省みて自分の心を改めることで、イエス様を迎えるにふさわしい心と姿勢をそなえる。そのことが、私たちに求められている「心の改め」であると思います。
私たちはイエス様の降誕という大きな恵みにあずかるために、心を改めてイエス様を迎える準備をしています。私たちを救われるために、ご自分の独り子をお与えになった神様に深く感謝いたしながら、続く降臨節の日々において自らの心を改めていけることを祈りましょう。