司祭 マーク・シュタール
今日の福音書(ルカによる福音書21:5-19)は今の聖霊降臨節の終わりに相応しいです。なぜなら、イエスは終わりの時の「終末論」について語っているからです。ある意味、イエスは紅葉や落ち葉の季節と同じ話をしています。だけど、イエスの紅葉の絵に美しさはありません。イエスの「key message」は「それはあなた方にとって証をする機会となる」です。しかし、イエスは注意します。私たちは一人ではなく、イエスが私たちに与えてくださる恵みが示されています。それは「どんな反対者も対抗勢力も反論もできないような言葉と知恵を、神様は私たちに授けてくれる」というものでした。これは今日の旧約聖書(マラキ書3:13-20b.23-24)に書いてある約束、そして使徒書(テサロニケの信徒への手紙二3:6-13)の統一の贈り物と全く一緒です。イエス・キリストを信じたために死刑にされた最初の殉教者から2,000年たった今、この同じ言葉は私たちに深い慰めをくれます。今、日本では様々な脅威がありますが、ほぼ平和で安全な時代です。キリストを信じる人が迫害されることはありません。でも、イエスの時代で、キリスト者たちの緊迫した状況はよく伝わってきます。今を生きる私たちも、それぞれ信仰が揺らぐことがあるかも知れません。私たちはそのような経験を神様に「証をする機会」が必要です。つまり、私たちの心でイエスの声を聞きます。その声はイエスの「知恵の言葉」です。
秋という季節には矛盾があります。秋の美しさとは裏腹に、秋は死の訪れを示唆しています。そして、今日の聖書のみ言葉でも矛盾があります。簡単な真理が示されています。「彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ(マラキ書)」や「働きたくない者は、食べてはならない(テサロニケの信徒への手紙二)」とはありますが、後で来るのは神様の悪事を戒める裁きです。もう一つ、終わりの時、また、一人一人のしんどい時も、イエスの声と力に頼ることが出来ます。今日の聖書のみ言葉は、私たちの信仰も神様もいつも二つのレベルで働いているということを示しています。一つのレベルは明らかで合理的です。もう一つは見えにくく不合理的です。この二つのレベルがあるからこそ、私たちはイエスの助けが必要なのです。私たちは終わりの時であるにもかかわらず綺麗な秋の紅葉を楽しんで見ることができるのです。
主に感謝