司祭 ヨシュア 大藪義之
ある教会にとても信仰に篤い夫婦がおりました。その夫婦はとても仲が良く過ごし、子どもが生まれるのを望んでいましたが、残念ながらその願いはかなえられず、数年して夫が病気で亡くなってしまいました。失意の中にある妻でしたが、数年してある人、(この人もとても熱心なクリスチャン)との出会いがあり、再婚することとなりました。ところが先の結婚と同様、子どもが生まれるのを望んでいましたが、残念ながらその願いはかなえられず、二人の一生は終わりを迎えました。三人とも神様の国へと旅立ち、天国で相まみえることとなりましたが、さて、この女性は先の夫の妻としてか、再婚した夫の妻のどちらになると思いますか?
「復活についての問答」と題されるルカによる福音書20章27節以下の記事を、現代風にすると上記のお話しのようになるでしょうか?
この記事に出てきた「サドカイ派」という人たちは、「モーセ五書=律法」の権威を特に重んじてり、また、イエス様の時代には、祭司や地主という貴族階級の人々からの支持を得て、政治的な実権を握り、ユダヤ教の指導的地位にある保守的な人たちの集まりで、「復活」を強く否定していました。
申命記25章5節には以下のような規定があります。
『兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。』
イスラエル民族を絶やさないように、またその血統を守り継がせるように、義兄弟との結婚が義務づけられていました。これは「レビラト婚」といわれるもので、さらにサドカイ派の人たちは「復活」はあり得ない、と考えていましたから、この記事のように7人もの兄弟と再婚を重ねて、もし「復活」があるとしたなら、その女性は誰の誰の妻になるのか?とイエス様に迫りました。
その問いかけに対してイエス様はこのように応えられました。
『次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。(死ぬことができない)天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』
イエス様に結ばれ、神の国にふさわしい者とされた人は、「娶る(めとる)」とか「嫁ぐ」といった誰かに所有される存在ではなく、神様のもとに解放され、神の子として自由な存在として生きる者となることを示されました。
文字(律法)でがんじがらめにされるのではなく、神様に吹き込んでいただいた息(=命)によって生きていることを感謝しましょう。