司祭 アンデレ 松山健作

8月末から9月初旬にCCEA(東アジア聖公会教会協議会)で東南アジア聖公会サバ教区に訪れました。協議会では、各地域の宣教報告とともにミャンマー聖公会の状況に焦点が当てられていました。

開会礼拝で説教をされたスティーブン・タン首座主教さまは、次のようなことをおしゃっていました。「ミャンマーでは、内戦が続き、大地震、洪水があり、家や教会、学校、すべてを失ってしまった人々がいます。そのような状況の中で、嵐の中を航海する船乗りが灯台の光を頼りに進むように、私たちはイエス・キリストの光に目を留めるのです。」

 主教さまは、苦難のある時こそ、困難がある時こそ、イエス・キリストから目を逸らさず、最も忠実である方に焦点を定めて歩まなければならないことを強調されました。そのように焦点定まる中で見えてくるのは、神さまとの約束であり、苦難の中における希望であるとおっしゃいます。

 神という存在は、忠実な方であり、たとえ私たちがホームレスになったとしても、神さまは帰るべきホームを備えてくださっていると主教さまはおっしゃいます。それは、主イエス・キリストのご復活における希望が私たちに与えられる瞬間であるとおっしゃいます。

ルカによる福音書16章19節以下では、金持ちの家の門前で横たわるしかできなかった貧しいラザロが登場します。彼は空腹で金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと願うほどの苦しみと困難を味わい、誰にも助けられることなく亡くなります。

生のある間にラザロが希望を見出していたかは定かではありません。けれども、神はそのようなラザロを憐れみ、天の国において迎え慰められます。おそらく、ラザロが神に迎え入れられたのは、神からの憐れみを受けたのと同時に、彼自身も神から目を逸らさずに生きることによって慰めを受けた可能性があります。

一方、富を崇拝し、貧しい者に目をくれなかった金持ちは死後の世界において神の憐れみを受けることができず、炎の中で悶え苦しみます。ここには、神と富との関係の中で富を選び、貧しい者への配慮を欠いた人間の末路が描かれています。 本日の日課は、私たちが富との関係をどのように保つのか、どのように貧しい人への配慮をするのか、そして貧しくされた時に誰に・何に焦点を定めて希望を見出し生きるのかを教えているのではないでしょうか。私たちは、恵みを注いでくださる神さまから目を逸らさずに、他者への配慮をもって生き、共に助け祈り合いながら生きるキリストの弟子として、この世に派遣されたいと思います。