司祭 ヨハネ 黒田 裕

今日のたとえには、一人の管理人が出てきて、主人から借金をしている人々の債務を軽減するという場面があります。「借金」と出てくると、聖書ではしばしば罪とその赦しをあらわすたとえとして、債務とその帳消しということが使われます。「あがなう」という言葉にも「買い戻す」というニュアンスがあって、罪に売り渡されていた人間が買い戻されて救われるというイメージを伴っています。

だとすると、今日のたとえもそれが当てはまるのではないでしょうか。主人への債務が、もし神さまとの関係をたとえているのだとすれば、私たちはこの管理人にではなく、主人へ借金している一人一人に私たちの身を重ねざるを得ません。実際、油や小麦を借金しているのがもし自分ならば、その管理人がどんな不正を働いていようとも自分の借りが少なくなるのだから、こんなに助かることはありません。

そう考えてみたら、ふと、この管理人はイエスさまをあらわしているのではないか?と思えてきました。イエスさまを「不正な」管理人にたとえるなんて、と思われるかもしれません。しかし、管理人は「告げ口」で不正とされたのであって、事実がどうであったのかはついぞ知れません。同じように、イエスさまだってある人びとの「告げ口」で捕まってしまったのでした。しかも結局のところ、現代風にいえば起訴事実は不明のままでした。また私たちは、イエスさまが当時の社会としては正しくないとされることをいろいろしていたことも知っています。ときに安息日をないがしろに、「大食漢で大酒のみだ」と中傷されたことすらありました。

イエスさまは、私たちがふだん思っているよりも、ずっと自由でユーモアのある方だったに違いありません。このたとえの中では、主人が管理人の抜け目のないやり方を誉めるところなどはイエスさまのユーモアが良く出ています。それに比べて自分は…、となると、どうでしょうか。自分の枠に収まらないひとをいろいろもっともらしい理由をつけて、押しのけているのではないか、と思えてきます。

この一連のたとえとイエスさまの言葉とを、厳密に、理路整然と語り尽くすことはむしろ放棄したほうがいいのかもしれません。それよりも、この行間に吹き流れる「風」を感じたいのです。これらのみ言葉全体の向こうから吹いてくる「風」に、ただ身をさらしてみたい。その風は、私たちの思いや枠組みをはるかに越えて私たちに吹いてきます。その風こそが聖霊と呼ばれるものです。その風が、聖霊が、私たちの心に吹き込まれています。