司祭 ルカ 柳原健之
今週の福音書は、キリスト教の核となる教えである「隣人愛」が主題です。
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みて言いました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」これは一見熱心な質問に見えますが、その後に「イエスを試みるためだった」と記されています。つまり、彼は真理を求めてではなく、自分の正しさを確かめるための質問だったのです。そしてさらにこう問い返します。「では、私の隣人とは誰ですか?」これは、自分が愛すべき範囲を限定したいという心から出た質問です。「どこまで愛せば十分ですか?」というわけです。
イエスは、直接答える代わりに一つの物語を語られました。ある人が強盗に襲われ、半殺しの状態にされて道端に倒れていました。そこへ祭司と神殿で祭司の補助者であるレビ人が通りかかりますが、彼らは「見て見ぬふり」をして通り過ぎていきました。
一方、ユダヤ人から忌み嫌われていたサマリア人は倒れている彼を見て「かわいそうに思い」、手を差し伸べます。彼は傷の手当をし、ろばに乗せ、宿屋に運び、世話をし、さらに宿屋の主人にお金を渡して「これ以上かかったら、帰りに払う」とまで言います。
この「かわいそうに思った」という一言に、隣人愛の本質があります。彼は義務感ではなく、「憐れみの心」から行動したのでした。
イエスは律法学者にこう尋ねます。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか?彼は「その人を助けた人です」と答え、イエスは「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われました。
イエスは、「誰があなたの隣人か?」とは聞かず、「あなたは誰の隣人になれるか?」と聞かれています。「隣人」とは「関係性」ではなく、「行動によってなるもの」であることを示されています。
この例えを通して、私たちは次のことが問われています。傷つき倒れている人を見て、通り過ぎる側の人間になっていないか?自分の都合や宗教的ルールを優先して、人の痛みを無視していないか?自分と異なる背景や信仰、立場の人をも「隣人」として愛せているか?心に突き刺さることばかりです。イエスが求められているのは、言葉ではなく「行動」です。愛とは、境界線を越える力です。サマリア人は忌み嫌っている相手であっても、その境界線を乗り越え、愛を実践しました。サマリア人のように、私たちも「愛する者になる」ことが、永遠の命に向かう道なのです。
イエスは私たちにとって「良きサマリア人」となってくださいました。私たちが罪の中で倒れていたとき、見捨てるのではなく、近づき、癒し、代価を払ってまで救ってくださったのです。イエスの愛を受けた者として、今度は「隣人になる者」として、この世に出て行きたいと思います。