執事 ダビデ 梁 權模

時折、「自分は何でもできる」と思うときがあります。それは、「これは難しい」と思われていたことを「自分で」解決できたときです。例えば、難しい数学問題が解けたときや、難易度の高いクロスワードパズルをクリアできたときがそうです。更には、そう簡単に承諾してくれない相手から良い返事を得られるように、「自分で」努力して成果を上げたときもありますし、自分を苦労させた課題を「自分の力で」解決できたときは、これ以上ない嬉しさがあります。

「自分の力で」解決できたときに、私たちは「自分の中にはこんな力があるんだ」と思い「自分は何でもできる」と思ったりします。逆に、「自分の力で解決できない」ときは、「自分は何の力も持っていない」と嘆きます。

興味深いのは、人々が「自分でできた」と思うのは「自らの手で」解決したときであって、自分の手ではなく「他人の手を借りて」解決したときは、そのように思っていないということです。「人の手を借りる」という表現の範囲はかなり広いのですが、私が思うには他人の能力―物質的、身体的、または思考力などの、自分が持っていない力を借りたときがそれであるように思っています。

今回の福音書は、自分の力ではなく「他人の力を」借りて解決していることが記されています。イエス様が72人の弟子たちにご自分の権威を分け与えて、それぞれをご自分が行こうとする町や村に派遣されます。弟子たちは帰ってきて、それぞれの働きを報告しながら「あなたのお名前を使うことで悪魔を屈服させることができました」と言います。

注目すべきことは、イエス様のもとに帰って来た彼らは「私たちの力で、あなたから任された務めを果たすことができました」とは言っていないことです。イエス様より任せられた務めを、イエス様の権威、そしてその力で、遣わされたところで働くことができたと彼らはイエス様に報告しています。つまり、弟子たちは「自分たちの力で」町の病人を癒し、神の国が近づくという福音を宣べ伝えたのではなく、「イエス様によって」行えたことを告白しているのです。

言い換えれば、弟子たちはイエス様から任された「良い知らせを宣べ伝える」という務めを「自分たちの力でできなかった」と嘆くのではなく、「主によって」これらのすべてができたと喜んでいるのです。

私たちは今、聖霊降臨後の時期を過ごしています。この時期はイエス様を通して与えられた聖霊によってイエス様の弟子である使徒たちが教会をつくり、教会が宣教の務めを担ってきたことを教えています。

教会の世に対する働きは決して、私たち一人ひとりの「自分の力」によってできたというより、聖霊を通して私たちとともにおられるイエス様によってその働きができるのです。

今まで私たちとともにおられ、ともに働いてくださったイエス様により頼み、これからもともに歩み続けることを願い祈りましょう。