司祭 ヨシュア 大藪義之

五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。(ルカ2:1~(聖書協会訳新共同訳)


 ペトロと11人の弟子たちが共に立って、声を張り上げ、話し始めたその内容は…、
『ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神はこの方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。あなたがた自身がご承知のとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです。 神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 
 あらゆる国の言葉で語られたこの福音を聞き、心を打たれた人々は「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのか」と問い、ペトロは「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」


イエス様が弟子たちや群衆に語られた時には、難しい言葉などではなく、たとえなどを用いて聞く人々が理解できる言葉で語ってくださいました。コロサイ4:6には「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」とあります。「快い=カリス」は「恵み、優しさ、感謝」という意味があります。またエフェソ4:29には「ただ、聞く人に恵み(カリス)が与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」とあります。私たち聖職も信徒もそのような言葉でイエス様の出来事を一人ひとりが証しするときに「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」という出来事が起き、「 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」となっていくのではないでしょうか?


 今、教会に足りていないこと。それは信徒一人ひとりがイエス様の証人になることではないでしょうか? 難しい説教よりも「分かりやすい証し」を大切にしてみませんか?