司祭 クリストファー 奥村貴充
私が神学生の時、夏の3週間に施設や病院などに行き、自分の課題を掘り下げていく実習がありました。ある神学生がゼミの中で言いました。「特別なことをしないことの大切さ」と。例えば施設なんかに実習に行くと、実習の神学生は何か仕事などをするわけではなく、ゆっくりと向き合っている人の傍らにいながら接することができます。こうした傍らに立って、そばにいる大切さを先ほどの神学生は「特別なことをしないことの大切さ」と、ゼミで発言したのだと思います。こういう姿勢は本当に大切だと思います。
イエスは宣教活動をされていた頃、さまざまな人の傍らにいて生きる力を与え続けました。それは宗教の専門家のように「このようなルールを守ったら、そうすれば解決する」と明確な答えを出したわけではありません。生きることの困難さに直面している人にとって、当時の社会で仲間外れにされていた人にとってイエスが傍らにいて共に考えました。そして共に歩もうとしました。そうするイエスの姿に人々は神の力を感じ、生きる力が与えられ、また立ち上がって行こうとする奇跡が働いたわけです。
私たちも同じことが言えるかと思います。私たち人間は人生の旅路を続ける中で様々な困難に遭遇します。そういった時に傍らに立って一緒に歩んでくれる人がいたとしたら、どんなに心強いことでしょうか。逆に、私たちは困っている人に出会うことがあります。そういった時、何か解決策を言おうとして必死にもがいた経験は誰もが持っていると思います。
しかし、難しいことは考えなくて良いのだと思います。何かをするわけでもなく、ただ傍らにいて困難さや痛みを共有する姿勢は、相手にとってどれだけ力強い勇気を起こさせることでしょうか。まさにその神学生が言ったように「特別なことをしないことの大切さ」がそういうところに求められています。
逆に、何かをしようとして「こういうことをした方が良い」とか「そうすべきではない」とかアドバイスめいたことを言ったとしても、それは自分の価値観の中に相手を引き入れているだけのことになりかねません。また、困っている人は必ずしも的確な答えを求めているわけではないでしょう。自分のことを分かってほしい、重荷を一緒に担いでほしい、ただそれだけのことが多いわけです。そういう時に、何か解決してあげようとするところに落とし穴があります。そういうのは全て神の導きに委ねればいいと、聖霊が教えてくれるとイエスはおっしゃっています。
私たちは主イエスが再び来られる時までイエスを直接に見ることはできません。しかし、私たちが困難さを覚えている人の傍らに立つときに、あるいは逆に生きることにつらさを感じている自分の横に誰かが寄り添って問題を分かち合ってくれるそういう時、すでにそこに聖霊の力が働いているのではないかと思えるわけです。
課題を抱える人に接しようと際、自分が「何かせねば」と思って張り切って何かしようと思ったら自分もしんどいだけです。私たちは神の働きに従い、それに倣って協力するだけで、あとは神にお任せするだけでいいのだと思います。何か特別なことをするというのではなく、一緒に重荷を背負うときに、教会が「慰めの共同体・教会」となり得ると言えましょう。