司祭 ヨハネ 黒田 裕
ちょうど5年前になりますが、ヴァージニア神学校への「日本に居ながら」留学を始めた関係で管区の聖職試験委員会から外してもらったので、今はもうそうではないのですが、それまでは、この時期には決まってその委員会があったので、毎年のようにこの頃には東京出張に行っていました。そんなサイクルで東京に行っていた頃、今からもう十数年前のちょうどこの時期のことです。試験委員会が思いのほか早く終わりました。そこで、せっかく東京まで来たのだからと、そのころ話題だった東京スカイツリーに行ってみることにしました。
おじさんひとりでスカイツリーというのもどうかとは思いましたが、300メートルを越える高さの眺めはどんなものか一度見てみよう、と期待して行ったのですが、あいにくの曇り空です。一応一つ目の展望台まで登りましたが、視界はゼロ。観光客が上がることのできる一番高い二つ目の展望台は断念しました。
ということで、スカイツリーのほうはとても残念な結果に終わりました。しかし、何気なく入った、併設されているプラネタリウムが、予想以上によかったのです。プラネタリウムというもの自体が、いったい「前回はいつ?」というほど久しぶりでした。しかし、今回のものは私が知っているプラネタリウムとは似て非なるものでした。確かに星々が天球に映し出され、星座の紹介があるにはあるのです。けれども、むしろドームシアターという感じで、ドーム状のスクリーンに映し出された映画をみているようでした。
もちろんそうした技術もすばらしいのですが、私が「行ってよかった」と思えたのは、むしろ作品の内容でした。上映時間によっていくつかのタイトルが選べるのですが、私はちょうど時間が合っていたのと、ある関心から、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をモチーフにした作品を選びました。
ある関心というのは、次のような微かな記憶から来ています。小学4年生くらいでしょうか、家の本棚で、ふとこのタイトルが気になって読んでみたのです。しかし、どうも意味がよく分からないままでした。そんな記憶がこれを機に甦り、どんなストーリーだったのか確かめてみたくなったのです。上映作品では実際そのあらすじがよく分かるものでしたし、賢治の作品世界が見事に映像化されていました。と同時に、原作のほんとうの結末は明かされていない、という心憎い配慮もありました。
もしかしたら、今さら「銀河鉄道の夜」か、と思われる方もいるかもしれません。しかし、私にとっては、こういう内容だったのか、と目からウロコが取れるような思いでした。そのため見終わったあと、その足ですぐに八重洲ブックセンターに向かい文庫本を求めました。そして、「早割」で予約していた新幹線までにはまだ時間があったので、喫茶店へ直行し、思わずそこで、いっきに読んでしまいました。
そもそも今回あらためて知ったのは、銀河鉄道とは、北十字とも呼ばれる白鳥座から南十字星までを走る天空の列車なのでした。すでにここに暗示されているように、実はこの作品の背骨ともいえるのは、十字架だったのです。それは、列車の旅の途中で、まばゆいばかりに白く光る大きな十字架が登場し、乗客たちがそれに向かって「ハレルヤ」と言い、十字架に祈る、という場面があることからも伺い知ることができます。さらにいえば、この作品は、人間の本当の幸せとは何か、どうしたらみんなが幸いになるか、がテーマとなっており、ヨハネ福音書の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)が暗示的に、そのテーマに対応するものになっています。ちなみに主人公のジョバンニとは、英語ではジョンつまりヨハネですので、この辺りにもヨハネ福音書とのつながりをみることができます。
こうして話し始めると、この作品全体についてもっと語りたくなってしまいます。ですが、この限られた時間のなかでは無理ですし、そもそも、結末を言うわけにも行きません。ですので、今日は、イースターを迎えるにあたって、一番印象に残ったところを取りあげたいと思います。
それは、銀河鉄道に後から乗ってきた女の子が、ジョバンニとその親友カムパネルラに話すサソリのお話しです。ジョバンニたちが、さそり座のサソリの目にあたる星、赤く光り、燃えているサソリの火について話していたときのことです。女の子は、その火が、サソリが焼けて死んで、いまでも燃えていると、お父さんから聞いたことを彼らに教えてくれます。
するとカムパネルラは言いました。
「サソリって虫だろう。」
「ええ、サソリは虫よ。だけどいい虫だわ。」
「サソリいい虫じゃないよ。ぼく博物館でアルコールにつけてあるの見た。(略)尾にこんなかぎがあってそれで刺されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんがこう云ったのよ。」
と言って、女の子はサソリの物語を話しはじめました。それは、ある野原にサソリがいて、小さな虫やなにかを殺して食べて生きていました。ところがある日イタチに見つかってサソリは食べられそうになります。そして必死に逃げたのですが、井戸の中に落ちてしまいます。そして、どうしてもあがることができず、サソリは溺れはじめます。そのときサソリは、こうお祈りしたと言います。
「ああ、私はいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうして私は私のからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい―。」
そして女の子は最後に言います。
「そしたらいつかサソリはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
ここで私は、このお祈りを祈ったのが、他ならぬサソリであった、というところにも大きな意味を見出さざるをえません。多くのものを傷つけ、命を奪い、みんなから忌み嫌われるサソリが、最期にはこのように祈った―。ここに、先週の福音書で出てきた、イエスさまの隣の十字架に架かっていた罪人と同質の姿をみるのです。多くの罪、あるいは、大きな罪を犯したであろうこの罪人が、最期には、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(22:42)、そう語ります。
この祈りと、サソリの祈りは、いつか同じ響きをもって私たちを揺さぶり、私たちの祈りを感化する力をもっているのではないでしょうか。もちろん、私たちには、「この次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい」とまでは祈ることができないのかもしれません。しかし、サソリのむなしさ、そしてあの罪人がもっていたであろうむなしさは、私たちの、むなしさや悲しみ、失望をつらぬくのではないでしょうか。
そして、サソリと罪人と、私たちの祈りを、神さまは確かに聞き、応えてくださるのではないでしょうか。その応えが、今日の福音書に出てくる、輝く衣を着た二人のひとの言葉に示されています。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(24:7)。
十字架で流されたイエスさまの血、それは、サソリの火のように真っ赤にうつくしく燃え、私たちの罪を燃やし、復活という出来事により決定的に、私たちの心を燃やし続けているのではないでしょうか。
イエスさまのご復活にあずかることによって、私たちには新たないのち、心に燃え、私たちの闇と、世の闇とを照らす火が与えられていることをおぼえ、心から復活日をお祝いしたいのです。イースターおめでとうございます!!