司祭 ヤコブ 岩田光正
東日本大震災から14年目を迎えた、先月、福島第一原子力発電所の現状に関する報道番組を観ました。国と東京電力による当初、最長40年間かかると計画した廃炉作業は、核燃料の取出しが極めて困難を極めており、目標は絶望的ではないかという内容でした。
このような危険な原子力を管理できずに、今も多くの人々が苦しんでいる現実・・・そもそも神が創造されたものを自分のものとして欲しいままにできると思う人間の傲慢・・・今日、人間はこれまでの生き方を根本的に問い直されているように感じさせられました。
今週の福音は、イエス様のたとえ話の中の、ぶどう園の主人と農夫のたとえが記された箇所です。イエス様はこのたとえ話で、何をたとえておられるのか、先ずそのことをお話した上で、イエス様が今の私たちに何を伝えておられるのか、共に考えてみたいと思います。
「ある人」とは、ぶどう園の主人のことで、神様のことです。次に、「農夫たち」とあります、イエス様はこの時、当時のイスラエル、特に指導者たちのことを指して農夫たちとたとえておられます。そして、ぶどう園の主人が次々と送った僕たちが出て来ます。僕たちとは、預言者のことです。神様はイスラエルの長い歴史の中で、人々がご自分に立ち帰るようご自分の言葉を伝えるため何度も預言者を送りました。しかし、彼らは預言者の言葉に耳を傾けようとしてきませんでした。逆に彼らを迫害してきました。
そこでぶどう園の主人は、ついには自分の愛する息子を送ることを考えます。「この子ならたぶん敬ってくれる」と思ったからです。
皆さんはどう思われるでしょうか?自分の召使いを三度送ったにもかかわらず袋叩きにして追い返した農夫たちです、そんなとんでもない農夫たちの所に大事な息子を送るでしょうか?この世の常識ではありえないと思います。むしろ、所有者なら彼らを解雇して警察に引き渡すのが当然です。それなのに息子を送るのです。結果は、どうなったでしょうか?
農夫たちは、息子を敬うことはありませんでした。しかも今度は袋叩きで追い返すどころか、殺してしまう・・・すでにお分かりの様に、息子とはイエス様のことです。
イエス様はこのたとえで神様がどのようなお方であり、これからご自分が辿ろうとしておられる受難について語っておられます。また、イエス様はこの後、ぶどう園の主人が農夫たちをどうされるかについても語っておられます。
「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない。」
ところで、主人も主人なら農夫たちもどうでしょうか?良く考えてみれば、この世的に常識には考えられないのです。
「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と彼らは言います。もし本当に主人の息子を殺してしまったら、自分たちは生きては済まされない。また、ぶどう園が自分たちの財産になるはずなどないからです。
福音の最初にこうありました。「これを農夫たちに貸して長い旅に出た」。主人は「貸した」のです。決して与えたのではないのです。だから、ぶどう園はあくまでも所有者である主人のもの。つまり、神様の持ち物なのです。しかし、農夫たちは自分のものであるかの様に、好き勝手に、神様である主人の忍耐や寛大さを踏みにじって強欲に振る舞っています。
さて、イエス様はこのたとえを、この時は、当時のイスラエルの人々、特に指導者に対して語られました。しかし、今、イエス様はこのたとえを私たちにも語っておられるのではないでしょうか?
農夫たちとは過去のイスラエルの人々だけの問題でしょうか?そうではない、実は、神様のものを自分たちのものであるかの様に考え、好き勝手している姿は私たちの姿ではないでしょうか?
聖書の創世紀にあります様に、天地万物は神様が創られたものです、私たちの身体、命も神様が創られたものです。そして、神様は私たち人間に他の地上のすべてを治める様に委ねられました。治めるとは、神様のものをちゃんと管理するという意味で、自分のものとして好き勝手して良いということではないのです。
しかし、私たちはこの世界を、自分たちのものであるかのように振舞っているのが現実です。初めの原子力の問題もそうです、地球をどう守っていくのかは深刻な問題です。更に人は遺伝子の組み替えなど命の領域にまで踏み込んでいます、その命はいまでは動植物だけではなく人の命にも及んでいます、いまキリスト教に限らず世界中、人々の多くは宗教に無関心で冷めた目で見ています。宗教は自分たちの都合の良い範囲で受け入れはしますが、自分たちの利益に反することになると閉め出してしまう、時には迫害さえしています。
まるでぶどう園の農夫たちが主人の言葉を無視しているイエス様のたとえに相通じるものを覚えます。
ところで、この大斎節という時にあって自分を振り返ってみた時、どれだけ神様の言葉に信仰的に真剣に生きていたかと尋ねてみた時、正直、恥ずかしい気持ちになります。自分のこと、目先の都合のことばかりであったこと、日々の生活の中でどれだけ神様の言葉を訊ね求めてきたか・・・原子力の問題にしても、正直、福島の人々のことを自分の事として考えているか、自分自身、このような社会の中で生きているの。ぶどう園の農夫と同じです・・・
福音に戻ります、イエス様はぶどう園の主人は「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」と語られました。では、どうだったでしょうか?
神様は滅ぼされることはなさりませんでした。
神様は、ご自分の息子であるイエス様が十字架で殺されることで、私たち人の罪、十字架で我が子さえも殺してしまう人間の罪をも担って下さったのです。また、イエス様はこの神様、普通世の常ならあり得ない様な忍耐強く寛大な神様のみ旨をご自分の十字架の死で示して下さったのです・・・
私たちはイエス様のたとえに出てくる農夫たちの様に生きています。しかし、神様は私たちを滅ぼすどころか、御子の命でさえ献げて私たちの罪を贖おうとしてくださった・・・ここに私たちは神様に立ち帰る機会が与えられているのだと思います。
イエス様はこのたとえの後、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と、詩編118編の言葉を用いておられます。
エルサレムの街には、白い石灰岩を積み上げた家が並んでいて、隅の親石というのは、アーチ構造で出来た家の、アーチの一番真ん中の要の石だそうです。もしその石が崩れると、全体が崩壊してしまう要石、イエス様はここで家を作る人が、役に立たないと思って捨てた石…その捨てた石が、家の一番肝心要の所に最後用いられたと仰っています。
もちろん、この石とはイエス様ご自分のことです。イエス様はぶどう園の農夫のたとえで自分を主人の愛する息子にたとえましたが、ここでは石にたとえています。人が捨てたイエス様という石、その石を一番大切な要石として用いたのは神様でした。
「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」神様はこのようにイエス様を送って私たちを裁くこともできたはずです。でも決してそうはなさりませんでした。むしろ、私たちを最後まで救い導こうとしてくださったのです。
最後、私たちは常識を超えるほど大きな神様の愛、そしてイエス様という要石で建てられた教会という家で、罪深い者でありながらもこうして神様に立ち帰ることを求められているのです。