執事 サムエル 藤井和人
今日のマタイ福音書では、イエス様が、ガリラヤのヨルダン川で、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられる場面が描かれています。
イエス様が、救い主メシアであれば、悔い改める罪を犯しているはずがないのに、なぜヨハネから洗礼を受けられる必要があったのでしょうか。誰もが疑問を抱くことなのだと思います。けれども、イエス様は、それは「正しいこと」だと言われ、あえて自ら進んで、ヨハネから洗礼を受けられました。
それは、弱さや脆さを持った私たちと同じ人間の側に立たれるということが、本当の救い主メシアとして、神様のみ心に適うことなのだと、イエス様は、洗礼を受けられることを通して、身をもって私たちに示されたのだと思います。
神様のみ心に適うことを、イエス様は、一言で「正しいこと」であると言われます。神様のみ心に適うことが、正しいことである。それは、私たちが持っている人間的な正しさとは、ある意味で、正反対のものであるように感じます。
私たちは、日々の生活の中で、「自分は正しい」と思っていても、相手にとってはそうではない場合が多くあります。そのようなとき、自分の正しさについていけない人がいると、ついつい、その人を攻撃してしまう弱さと脆さを持っています。
私たちは、それぞれ異なった背景があり、それぞれの想いも持って、教会に集められます。そのように教会では、それぞれの想いが渦巻く中で、人間関係のトラブルによって、お互いに理解し合えず、妬みや争いが生じることもあります。
けれども、そのようなときこそ、洗礼を受けられたイエス様が示されたように、神様のみ声に耳を傾け、私たちが持っている正しさではなく、神様のみ心に適うことが何であるのか、何がなされるべきかを、神様の助けを求めながら、共に問うていくことが、私たちに示された道なのだと思います。