司祭 エッサイ 矢萩新一

今日から新しい教会暦が始まり、クリスマスの準備の時を過ごそうとしています。教会の一年は、私たちが何を求めて生きていく存在なのか、自分自身を見つめ直す「紫」の祭色の期節・降臨節からはじまります。アドベントとも呼ばれるこれからの4週間は、イエスさまの誕生を目前に控え、心の準備をするときですが、その最初の主日である今日の福音書では、イエスさまの誕生についてではなく「人の子」イエス・キリストが再び来られる日、つまり終わりの日を待つということについて記されています。生きることは死を考えることだと言われるように、救い主のご降誕を待つことは、同時に終わりの時を意識して生きることだと教えています。

イエスさまは、終末がいつ来るのか分からないのだから「目を覚ましていなさい」と言われます。いつ来るのか分からない、どんな事が起こるのか分からない、その時をわきまえて準備しておくのはとても難しい事です。終わりの日とは、私たちの上に実現する神さまの救いの日のことで、私たちが神さまの救いを逃すことのないようにと、イエスさまは語られます。私たち一人ひとりが神さまに「よし」とされ、尊ばれている命を生きる者として、互いに愛し合う世界が実現する日が、救いの日です。ノアの洪水の前は食べたり飲んだりして、ごく当たり前の日常生活を人々は送っていましたが、神さまのみ心には無関心で、心に留めようとしていませんでした。そんな時に突然、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付きませんでした。私たちも日常の生活の中で、忙しさや気持ちの余裕がない時ほど、神さまの呼び掛けを忘れてしまいがちです。そして、神さまのみ心を忘れ去るような出来事が身の回り起こっているのに、それでもなお、私たちは無関心でいようとしてしまいます。

終わりのときがいつ来るのかということが重要なのではなくて、その時がいつ来てもいいように、よく生きるということが大切です。一人一人の命が大切にされてない状況を心に留め、神さまのみ心を意識して、目覚め、わきまえて、用意する、救いの時を確信して願い求めるという生き方、それが私たちの信仰生活であるということを今日の福音書から再確認したいと思います。目覚めているということは、イエスさまの生きざまに出会い、その死と復活の意味を覚えているということです。イエスさまと出会う私たちは、今まで通用していた価値観が全く通用しないことを突きつけられる体験、ある意味で死を体験することがあります。持っているものが通用しないと分かったとき、死を経験して新しい愛の命に復活する。洗礼や聖餐という私たちが大切にしているものの中に、絶えずイエスさまの死と復活があって、それが神さまの愛に基づくものであることを意識させられます。そのような意味で、降臨節は希望の光であるイエスさまの到来を「待つ」期節なのです。

私たちの周りには、死や滅びの世界がたくさん垣間見えるかも知れません。しかし、イエスさまの十字架の死と復活の生きざまを知る私たちは、この世における死や滅びの向こうに、神さまの愛があり、その愛が完成する終わりの時があることを信じ、望む者です。イエスさまの誕生という、今は目に見えない恵みを、私たちの心の中に受け取るのがクリスマスです。何気なく過ごしていても、毎年必ず12月25日は巡り、イエスさまはこの世に誕生されます。私たちは、ただ漠然と時を過ごすのではなくて、イエスさまは私たちに命を与える為、愛の炎を燃やす為、平和をもたらす為に、この世にお生まれになるという事を思い起こしたいと思います。全ての人に愛と命の光がともされていく喜びを楽しみに待つことが、アドベント意味であることを再確認しながら、降臨節の4週間を歩んでまいりましょう。