司祭 プリスカ 中尾貢三子

『バイブルアトラス』(日本聖書協会1999)には、聖書に出てくる地名とその当時の国名(地域名)だけでなく、地形図も描かれています。山岳地域や川沿いの低地が描き分けられ、山岳地域の色の濃淡によってその場所がなだらかなのか、険しいのかが伝わってきます。

イエスさまは9章51節で「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。ガリラヤ湖畔の町カファルナウム(海抜マイナス200メートル)を出発して、エルサレム(海抜750~830メートルの丘陵地帯)へ向かって移動をはじめられた、という文章が、実は起伏にとんだ地域をたどられたのだということが、地形図を通して読み取ることができます。

さて、今日の福音書(ルカによる福音書17章11~18節)では、イエスがエルサレムへ向かう途中、サマリアとガリラヤの間の村で、重い皮膚病を患う十人の人々と出会ったところから話が始まります。現代に比べて当時は、病気の発症や感染経路、治療に対する理解や知識が不十分でしたから、感染症の広がりを防ぐには「隔離」するしかありませんでした。そして旧約聖書に隔離が必要な病気かどうかの判断基準が記されているため、その診断をくだすのも祭司の役割の一つでした。そして診断名がつくと、感染拡大防止のため、家族や地元を離れて生活することになります。その結果、皮膚病の診断を受けた人々が寄り添い、助け合って生活していたことでしょう。そんな中、イエスさまの噂を聞きつけ、彼らはそろってイエスさまに会いに行き、病いの癒し、それが難しいならせめて憐れみを願います。

イエスは彼らに「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言われました。彼らはその途中で癒されました。しかし、癒された十人のうち、神を賛美し感謝のために戻ってきたのはただ一人。それもユダヤ人ではなく、サマリア人でした。イエスはその姿を見て、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」と問いかけ、感謝を表したその人に「あなたの信仰があなたを救った」と告げられました。

 十人全員が癒されたのに、感謝を表したのは一人だけでした。神の恵みはすべての人に注がれますが、それにどう応えるかは私たちの心のあり方にかかっています。サマリア人は癒されたことを神の業として受け止め、賛美と感謝をもってイエスのもとに戻りました。その行動こそが、彼の信仰の証でした。サマリア人一人だけが戻ってきたということは、彼(彼女)にとって、願いが顧みられ、かなえられるというのが、「有難い」出来事だったからではないか、と想像するのです。ローマ人から支配を受けているのはユダヤ人もサマリア人も同じなのですが、彼らはユダヤ人からもさげすまれていました。自分の訴えを聞き届け、かなえてもらえたということが、他のユダヤ人以上に大きな喜びだったのではないでしょうか。願いが聞き届けられる恵みが「有難い」こと、と受け止めたサマリア人は、それをもたらした方=イエスさまにその喜びを伝えたい、と心躍りながら、戻ってきたことでしょう。この心の動きをイエスさまはご覧になりました。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、あふれる恵み=神さまの愛を感謝とともに受け止め生きることへと変えられたサマリア人への祝福の言葉でもありました。

 翻って、私たちは日々の恵みがあたりまえだと思っていないでしょうか。神さまの愛が働いていることに気づいていますか?そしてそれを賛美と感謝の言葉と行いで表現しているでしょうか?

わが身を振り返るきっかけとなりますように。