司祭 ヤコブ 岩田光正

 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうと、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
 今週の福音の中のイエス様のみ言葉はとても厳しい言葉です。
 さて、「憎む」と翻訳されたこのみ言葉ですが、聖書の元々の言葉では憎しみの感情を表す意味ではありません。どちらかを選ぶという選択の意味があるそうです。イエス様は、16章でも、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」、と仰っています。ちょうど同じこの「憎む」という言葉が使われています。確かに、一方を選べば他方は捨てることになります、どちらも捨てたくないと思っている限り、実はどちらも選択していません。ということは、イエス様は自分に従おうとする者に、家族あるいはご自分そのどちらを選ぶよう覚悟を求めておられることになります。というのもこの時代、イエス様に従うことは、文字通り、命の危険にさらされることであり、また死をも覚悟しなくてはなりません。自分の命だけならまだしも家族、肉親の命まで巻き込んでしまいます、だからイエス様は、ご自分に従う者に覚悟があるのですか?と問い直されておられるのです。キリスト者になるとは、それほどに厳しい決断でした。
 今でこそ命の危険を覚悟することはありません。では、イエス様のこのみ言葉を、私たちはどのようなメッセージとして受け止めたら良いのでしょうか?
 福音の中でイエス様は三度も繰り返し、覚悟がなければ「わたしの弟子ではありえない」と語られています。最後は、「自分の持ち物を一切捨てないならば」とあります。「捨てる」こと、それはそれまで自分が執着していたもの、それがなくては生きていけないと思っていたものと別れを告げることです。
 ところで、大事なのはこの言葉は、所謂、修道僧のごとく何も持ってはならないという意味ではありません。イエス様は決して富や権力さえ否定されてはおられません。イエス様はそれらを持つことで、それらのことばかり、それらはお金や地位、また家族も人間関係も含みあります、それら諸々のことに執着する余り、自分の心が神様のみ心から離れしまうことを戒めておられるのではないでしょうか?むしろ私たちはそれらのものを神様のみ心に叶う様に用いる責任を委ねられているのだと思います。それまでは、執着する余り思い煩い、それを失うと思うととても不安でした。しかし、キリスト者になった今はどうでしょうか?勿論、必要であることは同じです。しかし、これまでと違い「自分の持ち物」に対して、どこか見方や捉え方が変わったことがないでしょうか?
 最後、主なる神さまは私たちに真の命を与えるために、ご自分を与えてくださろうとしました。私たちの根源的な罪からの救いのためにイエス様を送ってくださいました。独り子さえも惜しまず、すべてを捨ててくださったのです。イエス様はこの神さまの思いを果たすため、この後、十字架の道を歩んでいかれました。そして、今、私たちはこの神さまの真の命を信じ、神さまの家族・教会において十字架を掲げ、今週も神さまに感謝の賛美をささげています。