執事 サムエル 藤井和人
「会いたい」と想う経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。もし自分にとって大切な人、愛する人と、何らかの形で距離が離れてしまったとき、深い悲しみと寂しさを感じます。そこで初めて「わたしにとって、その人がどんなに尊く、大切な存在であったのか」ということに気づかされるのだと思います。いつか、またその人に「会いたい。」そのような想いで、その人との再会を待ちわびます。
ところで、日々の生活の中で、うまくいかないとき、孤独の内に落ち込んでいるとき、そのようなときに励ましてくれる人、一番に会いたい人がいるとすれば、それは一体誰なのかと、自分に問いかけることがあります。そして、そのたびに「イエスさま」と声に出します。
ふとしたときに、イエスさまが、そのような「わたし」のところに会いに来てくださったとしたら、どんなにうれしいことでしょうか。何と声をかけましょうか。何と声をかけてくださるのでしょうか。
聖歌517番を見てみますと、次のような詞で始まります。
「主が来られたから 主がわたしのもとへ 主がともに歩む この道を行こう」
今日のルカ福音書では、主人が婚宴から帰って来たとき、すぐに戸を開けようと待っている人のように、「目を覚ましていなさい」ということが言われております。
「目を覚ましている」とは、つまり「会いたい」という気持ちを絶やさず、イエスさまが私たちのところに会いに来てくださるのを待ち望むことです。
私たちは、そのようにイエスさまを待ち望みつつ、けれどもイエスさまは、すでに私たちのところに会いに来てくださっている。そのところが礼拝です。毎主日の礼拝の中で、すでに私たちのところに会いに来てくださっているイエスさまに向かって、私たちは、今想っている祈りと願い、悔い改め、感謝をささげます。
そのように私たちは、毎主日の礼拝を通して慰めと力が与えられ、この一週間も、神と人とに仕える者として、この世へと派遣されていきます。