司祭 ダニエル 鈴木恵一
ともに食事をする、というのは、人と人とのつながりを確かめ合う出来事でもあります。教区のキャンプで、親しくなっていくのも、食事を共にすることが欠かせません。感謝の気持ちをあらわすために食事に招くということもあります。また、家族のつながりを再確認するのも食卓だったりします。このように弟子たちの前でイエスさまが食卓をともにされたと言うことには、つながりが回復していく特別な意味があります。
でも、弟子たちはイエスさまの手足を見たり、イエスさまが食事をとるところを見て信じたというわけではありません。弟子たちが本当に信じる者に変えられるのは、イエスさまが「彼らの心の目を開」かれたからでした。わたしたちも信じる者となるために、わたしたちのこころに働きかけてくださる イエスさまと聖霊の働きに 心を開くことが求められています。
この朝食のときイエスがご自分の手でパンや魚を与えた姿は、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を養われた時の姿や、最後の晩餐の時ときに弟子たちにパンを分け与えられた時の姿に重なります。弟子たちの誰もが、そのことを思い出したに違いありません。この後しばらくしてイエスさまが昇天し、聖霊が降り、教会がはじまります。そのとき教会は、四つのこと、「使徒たちの教え」と「交わり」、「パン裂き」と「祈り」に専念しました。「パン裂き」とは聖餐式のことで、それは毎週の礼拝の中心でした。使徒たちは、礼拝に集まる人々に、イエスさまの十字架の出来事を語り、イエスさまご自身が和解のいけにえとなってくださったことを感謝しました。そのとき、ご復活ののちのこの朝の食事のこともきっと思い起こしたことでしょう。