司祭 アンデレ 松山健作

誰しも人や物事、いずれの場合でも心を閉ざしてしまえば、その対象への理解は深まりません。いや、むしろ心を閉ざしているのであれば、その対象から遠ざかりたいという心理さえ働きます。どのような文脈で心を閉ざすことになったのかは、それぞれ異なるかも知れません。

イエスさまの弟子たちであれば、どうだったでしょうか。共に生活し、師と仰いでいた先生が十字架に磔にされてしまいます。自分たちが信じてきたものは何だったのか。メシアではなかったのか。救いとは何か。またイエスの一味であるため、逮捕されるかも知れないという恐怖が彼らを襲っていました。

そのような状況の中で弟子たちは、家の中に隠れ、戸をしっかりと閉めて隠れていました。その一方で墓に向かった女性たちは、いち早く復活のイエスさまに出会い、そのほかの弟子たちにもその吉報を伝え始めていました。けれども、男弟子たちは「わたしは主を見ました」という信仰告白に耳を傾けることができず、心の戸が閉じられたままでした。

女弟子たちが復活という出来事に触れた翌週、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」いました。おそらく通常の家には、戸がいくつかはあったのだろうと思います。原語のギリシャ語では、「戸」と訳される言葉は複数形で記されています。

しかし、この鍵がかけられ閉じられていた「戸」は、物理的な扉や窓だけではありません。ここに集まっている弟子たちの心の状況を表す言葉ともなっています。つまり、復活が神によって起こされ、イエスさまのみ言葉が成就していたにもかかわらず、それを信じることのできなかった弟子たちの閉ざされた心の「戸」の状態が記されています。

イエスさまは、そのような弟子たちの状況の中に「あなたがたに平和があるように」とご復活をお示しになります。その時、弟子たちの頑なな心と恐怖は喜びへと解放されました。私たちもイエス・キリストのご復活に出会うことによって、私たち自身の閉じられた心が解放され、喜びと希望をもってこの世を歩む者になるよう遣わされたいと思います。